言論の領域で考えると、プラットフォーマーは言論空間を提供する業者、パブリッシャーは言論空間に意見を出す業者です。
兵庫県知事選挙でも露呈したように、マスコミは物語を作って人々にその物語を語らせようとします。本来の役割は真実を白日の下に晒すことですが、そのような役割を果たすマスコミの存在は稀で、ほとんどが既得権益側に有利な物語を作っています。そもそもそういう道具として発展してきたと思えることもあります。
以前、思考をするときには現実的な思考、哲学的な思考、パラダイム的な思考が必要であると書きましたが、「本来どうあるべきか」という哲学的思考が、マスコミ問題でも必要だと強く感じます。
これはなかなか難しい問題で、多くの人が「得をすると思えば嘘をつく」「損をすると思えば押し隠す」ということをします。心当たりがある方も多いのではないでしょうか。これは人間性の一部ではないかと思っています。ですので既得権益を守るために嘘をつくという現象をなくすことはできないでしょう。お金や地位が絡むとこれは顕著です。
スポーツはフェアプレイの精神で、という言説があります。フェアプレイは見ていて気持ち良いものですね。
ですが、こんな場合はどうでしょうか?
テニスの試合で、サーブが入ったか入らなかったかが微妙な場合があります。審判は入ったと判定したとします。しかし、サーブを打った選手は入らなかったと思ったとします。こんな場合に、サーブを打った選手が審判に対して「今のはアウトだ」と抗議したところを見たことがありますか?サーブを打った選手は黙ってると思うんですよ。「審判の判定が絶対だ」というのがフェアなのだとしたら、サーブが入っているのに入っていないという判定をした審判に抗議することはないと思うのですが、その場合は抗議しますよね?「入ったか入らなかったかを厳正に判定する」のがフェアなのだとしたら、審判の入ったという判定には抗議すべきですよね?これはほんの一例ですが、人間は「得をすると思えば嘘をつく」「損をすると思えば押し隠す」わけです。
「審判の判定に従うのがルールなのだ」と「入らなかったらアウトがルールなのだ」は随分違いますよね。前者は綺麗事でしょうね。本来は後者が尊重されるべきです。そうしないと心が晴れないというかモヤモヤするというか変な気分になります。
綺麗事ばかり言っていると集団は腐っていきます。この観点で、共同体、交友関係、行政、企業活動を見てください。腐敗を発見できることがあると思います。
言論空間のプラットフォームと言えば、YouTubeやFacebook、Xなどが有名で利用者がとても多いです。これらのプラットフォームでは真偽のわからない情報が日々大量に流れています。YouTubeやFacebookには検閲と呼べそうな規制が行われることが多いです。Xはイーロン・マスク氏が買収してから検閲が減ったように思います。米国大統領選挙では検閲の少ないXの威力が発揮されたと言う人もたくさんいます。
検閲は「言われては困ることを隠す行為」ですので、前述のマスコミによる物語作りと同様の効果や結果を生みます。「これって誰得?」という疑問を常に持ち続けていれば、作られた物語に気づくこともあるでしょうが、常に疑問を持ち続ける(哲学的思考)は困難ですから、ついつい騙されてしまうことになります。
真偽のわからない情報というのは、時間が経つと真実側に収束していくことがあります。人々が真実を知りたいと欲することによって収束していきます。Xはこの方向を尊重しているように見えます。
物語を作って人々の脳を操作する行為を行う業者はプラットフォーマーではありません。YouTubeやFacebookは、コンピューターシステム自体はプラットフォームですが、それを使って利益を上げる運営業者はプラットフォーマーではないわけです。これははっきり意識して利用すべきでしょう。
ちなにみ私はテレビを観ませんし新聞を買いません。ネットの情報も発信者が嘘を言っていると判断できたときにはミュートするようにして腐敗から距離を置くようにします。綺麗事には常に猜疑心を持つようにしています。そして腐っていると思っても直接言及したりせずに、少し距離を置くようにして喧嘩をしないようにします。
一つ前の投稿「モノづくり塾『ZIKUU』がやらないこと」で自己規律について書いていますが、これも腐敗から距離を置くための工夫です。
いつも晴れ晴れとして心で、いつ死んでも悔いがない。そんな生き方をしたいものです。