思考実験をするような気分で読んでくださいね。
日本は元寇などの例外はありますが、ほとんど外敵の侵略を受けてこなかった島国です。先の戦争で米国を中心とした連合国に占領されるまでは、日本人にとっての災害とは主に自然災害でした。国内の戦と行っても、武士同士が争うだけで、負けたところで田畑を奪われるでも、命を奪わるでも、奴隷されるでもなく暮らしてきました。なので、とてものんびりしています。昔から平和ボケだったと言っても良いかもしれません。
そんな日本人は、いよいよダメだというときにならないと変われないかもしれません。手遅れになれば滅びるかもしれません。
誰かが借金をすると銀行のコンピューターによって通帳に数字が書き込まれます。これがお金が産まれる瞬間です。銀行や通貨に信用があることを前提にお金を産むから、借金を信用創造と呼びます。
余談ですが、私は創造という言葉が嫌いです。人間なんて、自然の中の何かを模倣する程度のことしかしていませんから、まるで神様のように創造するというのは変だと思っています。創造というと何か傲慢で胡散臭いと感じます。信用創造も胡散臭いですよね?
借金をした人はそのお金を使って「使用価値」を生産し、お金と交換して借金を返します。返せない場合は、使用価値である家や車や土地や設備を取られ、場合によっては命も取られます。
借金をした時点では、お金は未来価値です。未来に価値があることを前提として価値があるものと仮定するわけです。また、将来、使用価値である米や服と交換するまでは、ただの数字かただの紙切れです。
「未来に実際の価値が生産される」つまり未来があるということと、その未来の時点で「価値があると信用できる」ことが必要です。
実際には何の価値も産まないマネーゲームをしているような人たちが、価値があると思わせているお金を作り、実際の価値=使用価値と交換するのが買うという行為です。実際の価値は生産労働によって産まれるわけですが、お金は生産労働をしなくても、ひどい場合には労働をしなくても産めます。
見方によっては「働かない人が働いた人の成果を手に入れる」ために作られるのがお金だと見えます。
言葉は悪いですが、泥棒に近い感じがします。
そう考えると、「お金がたくさん欲しい」は盗む気満々ですね。
戦争や紛争、自然災害などで社会が混乱し、未来に希望が持てない、お金の価値を担保する未来を失う、政府や銀行が破綻したり腐敗して信用を失う。そうなるとお金の価値はなくなりそうですね。
そんな時、「買う」ことしかしない・できない人は、使用価値を盗まないと生きていけないから、本当に泥棒になるか、泥棒ができないなら餓死するしかなくなります。都市部ほど酷いことになるかもしれません。日本人は戦後にハイパーインフレーションを経験していますが、そんなことを覚えている人はほとんどいません。当時は筍生活といって、米を手に入れるために家財を売り、売るものがなくなると娘の着物を一枚一枚脱がせて売り(筍を剥くのに似ているから筍生活)、売るものがなくなると娘を売るということが行われました。
現代は生産労働をしない人がとても多いです。そして、筍生活をしたときの日本人のような危機感もありません。
生活防衛というと、貯金や投資のようなものを思い浮かべるかもしれませんが、社会が乱れたら使用価値を盗みにくる人をやっつける防衛になるかもしれません。
こんな思考実験をすると、モノづくり塾がカネをモノ(生産設備)やコト(生産技能)に変えておいた方が良いと提案する意味がよくわかると思います。設備投資は経済を回すのにも有効ですので、マネー社会が混乱しない場合も通用しますし、技能を身につけるために学ぶことは視野を広げ人生を豊かにします。