生きている限り勉強は続けるものです。人間などはちっぽけな存在で全能でもありませんから、知っていることより知らないことの方が多いのです。だから常に勉強。
100年程前は多くが農民でした。当時は田畑を耕し、そのための道具の維持管理をする能力を身につけるのが大事で、勉強はそのためのものでした。
その後、工業生産が増えて、機械や電気について学ぶ必要が出てきました。それに合わせて、生産技術を身につけるために教育内容が作られます。
この2つの時代を生きていた人なら、作物を育てて収穫し、家にある機械や電気製品を修理するということが当たり前になります。私の父はミシンやラジオやテレビの修理ができました。
教育の大部分は、その時代に生きる術を教える、その時の国家が必要な人材を養成するのが目的です。
現代のモノづくりはデジタル技術を採用するなどして複雑化しています。コンピューターで設計を行い、コンピューターが製造装置を動かします。ですので、デジタル技術無しのモノづくりは過去のものなのです。
過去のものは駄目だと言っているのではありません。過去のものを継承するだけでも一人の人間がやり切ることができないほどの分量と深みがあります。ただし、新しいものをやろうと思うと、過去のものだけでは間に合わないです。
そう考えると、教育も変わらざるを得ませんね。
これまでと違って、インターネット利用が進んで、一人ひとりが公に意見を言えて、それが世界中に瞬時に伝わる時代です。働き方も変わり、住居や移動の考え方も変わっています。そんな時代ですから、過去よりも自由にやれる可能性があるのですが、現代教育は過去のスタイルを踏襲していますから、頭の中には過去のスタイル(様々な制約)が残っています。
モノづくり塾は「やりたいことを好きなだけやろう」「自分で考えて自分で決めよう」「出来る人は出来ない人に教えよう」ということを大事にしています。
学校や企業の教育ではなかなか「やりたいことを好きなだけやる」ということはできませんから、これだけでも塾の存在価値があると思っています。
「自分で考えて自分で決める」ためには、情報を集めて分析し理解する力が必要ですから、積極的にITを使いましょうという話にもなります。さらに「自分で決めたら自分で責任をとる」という責任感も必要です。「自分で決めて、自分で責任を取る」というのを自立と呼びます。
「出来る人は出来ない人に教える」というのは、知識や技術を独り占めしないという意味と助け合いの意味があります。
現代日本人には長文が読めない、読解力が足りないという問題が指摘されています。
たぶん多くの人が、これくらいの長さの文章を最後まで読めません。
長い文書を読み、何事も感情的に反応せずによく考えることを習慣にして欲しいです。子どもたちには、長い文章が読めて、何事にも感情的に反応せずによく考えられる大人に育って欲しいです。これをやらないと、膨大な情報の海で迷子になってしまいますし、判断力や決断力を養うにはこれが必要です。ここにゆとり教育的な考えを混ぜてはいけません。
子どもたちは「何のために勉強するのか?」という疑問を持つことがあります。
貧しい人を見て、「勉強しないとあんな風になっちゃうよ」という子供に言う親がいますが、そうではなくて「勉強してああいう人がいない社会を作るんだよ」と教えるべきです。教育というのは立派な人格者を育てるのが本来の目的ですから、学校も家庭も立派な人格者を育てることを意識しないといけません。貧しい人を蔑むような人を人格者とは言いません。
判断力や決断力を高めて、人格者にしようというのが教育の目標です。これが教える側に求められることです。
学ぶ側に求められるのは、「学び方を学ぶ」ことです。「どうすればこれを理解できるのか」を考えられるようになることです。学び方を自分で工夫できるようになることです。できれば、中学生になるまでに身に着けたいです。
長い文章が読めて、感情的に反応せずによく考えるという癖があって、自分で学び方を工夫できれば、「やりたいことを好きなだけ」やるのも「自分で決めて自分で責任を取る」こともできます。これに「出来る人が出来ない人に教える」を加えれば貧しい人を蔑むような低い人格にはなりません。