— 反応ではなく、観察と構築で生きるために
私たちが生きているこの社会は、便利になったはずなのに、どこか息苦しい。
ニュースに反応し、流行に反応し、他人の評価に反応する。
人々は反射神経だけで動き、考えることを忘れてしまったかのようだ。
それは、コロナ禍のときに痛感した。
怖い、危ない、みんながそうしているから——その連鎖の中で、誰も「なぜ」を問わなくなっていた。
けれど、人間は反応だけで生きる生き物ではない。
私たちは本来、考え、観察し、組み立てる力を持っている。
それが人間らしさの核心だと思う。
「週末科学者」という生き方
週末科学者とは、肩書きでも職業でもない。
それは、知的好奇心を生活の中に取り戻す生き方だ。
仕事とは別の時間で、世界を観察し、試し、考える。
庭の植物の成長を記録する。
電子工作やプログラミングで仕組みを理解する。
AIを使って思索を深める。
それは趣味ではなく、「生きることの再構築」でもある。
目の前にあるものを見過ごさず、「なぜ」と問い、「やってみよう」と動く。
それだけで、世界の見え方が変わる。
希望を持ったまま絶望する
私は長い間、この国の知の衰退を見てきた。自分もその一部であったと思う。
考えない人が増え、反応だけで動く社会。
教育も政治も、未来への投資より目先の損得を優先する。
若者たちの未来が崩れていくのではないかと思う。そもそも人間は未来があると思えるから、橋を架け、新幹線や飛行機を作り、道を作る。自分だけで終わりなら、そんな努力をする必要はない。その未来が危ういと思ったら、今を生きている意味などない。
私は希望を持ったまま絶望するという、奇妙な感情の中にいる。
現実の愚かさを直視しながらも、それでも人間には可能性があると思っている。
「もうだめだ」と思いながら、「それでもやろう」と思える。
矛盾した感情のように聞こえるかもしれないが、私の中では矛盾なく共存している感情だ。
残すという行為
私は毎日のように、何かを残す作業をしている。
プログラム、文章、建物、設計、哲学——すべては未来への記録だ。
残すことは、作って終わりではないから。それを使う人のために整えておかないといけないことがたくさんある。
でも、それが文化の根っこを形づくる。
未来の誰かが「ここに道があった」と気づくように。
終わりに
週末科学者という生き方は、
孤立でも、反抗でもない。
それは、世界をもう一度よく見るための態度だ。
AIや制度や流行に振り回されるのではなく、
自分の手と頭で、世界を確かめる。
その小さな試みの積み重ねが、
やがてこの社会の呼吸を取り戻していく。
小さなことでもいい。生活の中に科学を持ち込んでみてはどうだろう。