不揃いの美学

― 個性的であることと、自然の作法 ―

「個性的である」と「個性的であろうとする」ことは、似ているようでまったく違う。
前者は自然体のまま滲み出る姿であり、後者は他者の視線を意識した演出だ。
そしてこの違いは、古の職人たちが築いた木の建築――とくに法隆寺の姿に、はっきりと現れている。


もともと人は、違っている

人は生まれたときから違っている。
体のつくりも、声の響きも、考えの癖も、みな異なる。
だから本来、個性的であることは努力の結果ではない。
自然であれば、それだけで個性的なのだ。

けれど、人はしばしば「個性的であろう」として不自然になる。
それは、他人の目を気にしているからだ。
「個性的とはこういうことだろう」と考えた瞬間、そこにはすでに他人の型が入り込んでいる。


類型化された「個性」

街には、同じような「個性的な人たち」があふれている。
スターバックスのカップを手に、MacBookを開き、顎に小さな髭を生やし、同じ形のパンツを履く。

類は友を呼ぶと言われるよう、塾の周辺にもなぜか似たような髪型や服装の人の集団が目立つ。

そういう人たちが、なぜか子供の個性を大切にした教育をなどど言う。

彼らは「自分らしく」装っているようでいて、実際は社会が量産した“個性的らしさ”を演じているに過ぎない。
自由に見えて、実は均一だ。
同じ方向を見て、同じ「違い方」を競っている。

自然な個性とは、もっと静かなものだ。
派手ではなく、説明もいらない。
それでも、その人を感じさせる何かが残る。
それが、本当の「違い」だ。

本当の「違い」がわからない人に、個性を伸ばす教育ができるのか。


法隆寺が教える「不揃いの力」

法隆寺の宮大工、西岡常一さんはこう言った。

「法隆寺は、不揃いの木を組んで建てられている。
不揃いの木を上手く活かすのが棟梁の仕事だ。」

何度か法隆寺を訪れたが、確かに微妙に個々の部品の寸法や形が違う。
柱も梁も、太さも曲がりも微妙に違う。
それでも、全体は見事に調和している。

一本一本の木が、互いの個性を認め合いながら立っている。
それは、まさに「自然の作法」そのものだ。
均一ではないからこそ、力が分散し、風を受け流す。
不揃いが、むしろ長く持つための秩序になっている。


棟梁の仕事とは、揃えることではない

西岡さんが言う棟梁とは、命令する人ではなく、調和をつくる人だ。
職人一人ひとりの癖や性格を読み取り、それぞれが活きるように組み合わせる。

つまり、不揃いを活かすことこそが統率だ。

ZIKUUの場も、同じような構造を持っている。
塾生も、職人も、AIも、みんな違う。
その違いを矯正するのではなく、噛み合う形を探していく。

揃えるより、響かせる。
整えるより、間を整える。
そこに「自然の作法」がある。


「個性的である」とは、不揃いを受け入れること

本当の個性とは、何かを足すことではなく、削っても残るもの。
飾りを取っても崩れない芯のようなもの。
それは、自然体でなければ見えてこない。

人も木も、曲がりや癖がある。
それを活かして組み上げるとき、強さと美しさが両立する。
均一な建築には出せない温度が、そこに宿る。


結語 ― 不揃いのまま立つ

法隆寺の柱は1300年以上、立ち続けている。
完璧に揃っていないからこそ、揺れを吸収し、力を逃がせたのだろう。

人もまた、完璧であろうとすると折れる。
不揃いのまま呼吸しながら立ち続けることで、長く生き延びる。
それが、自然であるということだ。

ZIKUUもそうありたいと思っている。
整いすぎず、乱れすぎず、一人ひとりの癖を活かしながら、静かに響き合う場所でありたい。


個性的であるとは、
何かを足すことではなく、削らずにいられること。
自然であるとは、
世界の流れの中で、自分のリズムを忘れないこと。

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