情弱に仕掛けられる罠〜信じることの危険と、考えることの倫理

「情弱」という言葉が軽く使われるようになった。
だが、情弱とは単にITに疎い人のことではない。
むしろ、情報が多すぎる時代に、考える力を手放してしまった人のことだ。
そして、現代社会はその“思考を放棄した人”を狙い撃つように設計されている。

残クレ、サブスク、情報商材、プログラミング講座、副業スクール。
名前は違っても構造は同じだ。
不安を煽り、安心を売り、知らない人を安心させてお金を奪う。
しかも、奪われた側は自分が被害者だと気づかない。
「自分で選んだ」と思い込まされているからだ。


信じる=知らない

私は昔から「信じることの危険」を訴えてきた。
信じるという行為は、一見すると善良で、人間的で、温かい。
だがその実態は、“知らないことをそのままにしておく”という行為だ。
知らないから信じる。わからないから委ねる。
つまり「信じる」とは、“無知の上に立つ安心”である。

詐欺も宗教も情報商材も、すべてこの一点を突いてくる。
「あなたの不安を解消します」と言いながら、
その不安を解消できない構造の中に閉じ込める。
信じる人ほど、優しく誠実だからこそ、最も狙いやすい。

信じる者は救われるかもしれないが、
信じる者は同時に利用される。

人は知らないものを信じる。
しかし、知る努力をやめた瞬間に、人は“誰かのビジネスモデル”の一部になる。


「信じたい」という欲望

人はなぜ信じてしまうのか。
それは、不安を和らげたいからだ。
「知らない」という状態は、脳にとって強いストレスであり、人はそれに耐えられない。
だから“答えを持っているように見える誰か”を信じてしまう。

信じるとは、恐怖を麻痺させる防衛反応だ。
考えることを止めて、安心を得る。
そして、安心をくれる人を「正しい」と感じる。
詐欺師もマーケターもこの構造を熟知している。
彼らは商品を売っているのではない。安心を売っている。

SNSのアルゴリズムも同じだ。
あなたが信じたいもの、怒りたいもの、共感したいものを選び取って見せる。
そしてあなたの信じる力を、広告主に売る。
「信じたいものしか見えなくなる社会」こそが、現代の最大の罠だ。


考えない教育

信じる人が増えたのは、教育の成果でもある。
学校では、正しい答えを早く出すことが評価される。
「なぜそうなるのか」を考えるより、「そうなる」と信じるほうが効率的だ。
この国では、考えるより信じるほうが優等生の証になった。

明治の教育制度は、「富国強兵」のために作られた。
従順で、命令を読める労働者と兵士を育てる仕組みだ。
それがいまだに形を変えて続いている。
「考える民」ではなく、「信じる民」を育てる教育。
だからこそ、詐欺や搾取がいつまでもなくならない。

「信じる力」は教育の成果。
「疑う力」こそ、教育の本質。

知るとは、信じることではない。
それを疑い、確かめ、再構成することだ。
「正しい」を信じ続ける社会に、成長はない。


安心を売るビジネスの設計

現代の多くのビジネスは、「不安」を原資にしている。
残クレは「月々安い」を見せて、最後に高くつく。
サブスクは「いつでも解約できる」と言いながら、人の“忘れる習性”を利用する。
プログラミング講座は「AI時代でも稼げる」と煽り、中身は初歩的で、ベテランプログラマーから見れば、お遊びにしか見えない。

AIツールも同じだ。
「これさえ使えば仕事が楽になる」と言いながら、使う人の理解力を奪っていく。
考えなくても成果が出るように見せる。
だが、それは成果ではなく、依存だ。

“便利さ”とは、思考を奪うための言葉でもある。
「考えなくていい」という快楽の裏で、人は少しずつ、自分の判断力を失っていく。


情報過多社会の“信仰”

知識が足りない時代には、人は学んだ。
だが、情報が多すぎる時代には、人は信じるようになった。
選択肢が多すぎると、人は判断を放棄する。
だからこそ、「権威」や「多数派」に逃げる。

Apple信者、投資系インフルエンサー、資格商法、AI崇拝。
どれも「正しそうなものを信じておけば安心」という心理の産物だ。
現代の“信仰”は、神ではなくアルゴリズムに向けられている。
「おすすめ」という言葉が、“神託”にすり替わっている。

情報が多すぎる社会では、
考える人より、信じる人のほうが早く、楽で、儲かる。

企業にとって“信じる人”は最高の顧客だ。
なぜなら、何度も同じ罠にかかってくれるからだ。
疑わない人ほど、経済の燃料になる。


信じないことの倫理

信じない人は、冷たい人だと思われがちだ。
だが本当は逆だ。
信じない人は、「相手の言葉に責任を求める人」だ。
疑うとは、裏切ることではない。
確かめるための敬意である。

日本社会では、信じることが美徳、疑うことが非礼とされる。
その風土が、信じる人を搾取にさらしている。

信じない勇気とは、「考える責任を自分で引き受ける覚悟」だ。
それは孤独を伴う。
だが、その孤独こそが、思考の自由の証になる。

信じる人は安心する。
疑う人は成長する。
考える人だけが、自分を守る。


知る努力をやめない人たちへ

考えることは面倒だ。
信じることは楽だ。
だが、その楽さを選んだ瞬間に、あなたの未来は他人の利益に変わる。

社会は「知らない人」によって回っている。
知らない人が、知らないままお金を払い、働き、納税する。
そして“知っている人”だけが、その構造を設計し、利益を得る。

だから私は言いたい。
知る努力をやめるな。
信じる前に、疑え。
疑う前に、調べろ。
調べたら、自分で確かめろ。

「信じる=知らない」と気づいた瞬間から、あなたは少しだけ自由になる。
それが、現代における“知の倫理”だ。

信じることで得られる安心より、
知ることで得られる不安のほうが、ずっと誠実である。


考える者だけが、生き延びる

情弱とは、情報を持たない人ではない。
考えることをやめた人のことだ。
世界の複雑さに背を向け、“わかった気”になった瞬間、人はもう食われている。

だが、考える人は違う。
疑い、確かめ、手を動かし、自分の中に答えを積み上げる。
その過程が、唯一の防具になる。

AIの時代でも、情報の時代でも、生き延びるのは「信じる人」ではない。
考える人だ。

考えるとは、闇の中で手探りを続けること。
信じるとは、光を見たふりをすること。

光は信じる者に降りるのではなく、考え続ける者の足もとに灯る。

「情弱に仕掛けられる罠〜信じることの危険と、考えることの倫理」への1件のフィードバック

コメントする