道徳の取引

― やさしさが通貨になった社会 ―

震災で両親を失った子を見て、「可哀想だ」と言う人がいる。
中には、わざわざSNSに書き込む人もいる。
「胸が痛みます」「涙が止まりません」「何かしてあげたい」――。
けれど、そういう人たちが本当にその子を支えることはほとんどない。
里親になるわけでも、生活の面倒を見るわけでもない。

彼らが欲しいのは、自分がやさしい人であるという感触だ。
つまり、「可哀想」という言葉を使うことで、他人の痛みを自分の道徳の舞台にしている。

「あなたが可哀想だ」という言葉の裏には、「だから私は良い人だ」という響きが隠れている。

1. 行動なき共感

誰かの苦しみに心を寄せること自体は悪くない。
でも、それが行動を伴わないまま発信されると、共感は自己演出になる

「可哀想」と言うだけで満足してしまう人は、他人の痛みを“感じることで済ませる”。
痛みを共有するのではなく、痛みを観賞している

行動しない共感は、他人の痛みを消費する一種の娯楽である。

2. プライドを奪うやさしさ

両親を失っても、その子は生きていく。
泣いて、働いて、学んで、努力して、自分の力で立ち上がろうとしている。
その姿には、確かな誇りがある。

そこに「可哀想だね」と声をかけることは、その子の誇りを踏みにじることでもある。

やさしさが、相手の尊厳を傷つける瞬間がある。

本当のやさしさは、同情ではない。
「すごいね」「頑張ってるね」と言えることだ。
そして、ときには何も言わず、その努力を静かに見守ることだ。

3. 道徳の取引

現代社会では、道徳までもが取引されている。
「共感」や「やさしさ」は、評価や承認の通貨になった。
SNSで「いいね」を押すことが、善行の代替になり、感じることが、考えることの代わりになった。

人は“善い人である”という印象を維持するために、やさしさを少しずつ発信し続ける。
だがそれは、心の取引だ。

道徳が取引になった瞬間、やさしさは意味を失う。

4. 「可哀想」と言わない勇気

ほんとうの共感は、沈黙の中にある。
見て、知って、理解して、それでも何も言わないことがある。
それは無関心ではなく、敬意だ。

「可哀想」と言わない勇気。
それは、相手の尊厳を守るための勇気だ。
そして、他人の痛みを“借りない”という誠実さでもある。

道徳を取引しない。
他人の悲しみを自分のやさしさの証明に使わない。
それが、ほんとうの倫理だと思う。

5. ZIKUUが立つ場所

ZIKUUは、この取引から距離を置く場でありたい。
やさしさを競わず、正しさを演出せず、ただ、目の前の現実に手を伸ばすだけの場所でありたい。

誰かが困っていたら助ける。
できないときは、無理に助けようとしない。
その線を誤魔化さないことが、誠実さだと思う。

やさしさは、感じることではなく、引き受けること。
それを取引にしない限り、人はまだ人間でいられる。

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