― 綺麗事の裏にある正義中毒の構造 ―
綺麗事を言う人が多い。
「地球のために」「子どもたちの未来のために」「みんなで助け合おう」。
聞こえはいい。だが、その裏には誰かの悪巧みがある。
そして、その悪巧みのまわりには、利権に群がる人々が並ぶ。
環境、平和、福祉、教育。
どんな分野にも、正義をまとった金の流れがある。
しかもその流れは、善意の言葉に包まれて見えにくい。
国も企業もNPOも、「良いことをしている」という顔をして、補助金や寄付や支援の名目で税金や善意の気持ちを吸い上げていく。
それでも人々は疑わない。
なぜなら、綺麗事を信じることが“良いこと”とされているからだ。
疑う者は「心が汚れている」と言われ、批判する者は「共感が足りない」と責められる。
こうして、「疑う力」は悪徳とみなされ、「信じること」が美徳として君臨する。
社会は思考をやめ、誰かの善意の芝居に拍手を送る観客になってしまう。
綺麗事とは、他人の罪悪感を利用するために発明された最も洗練された道具だ。
リサイクル、ダイオキシン、地球温暖化。
どれも「良いことだから反対できない」構図の中で、巨大な利権を育ててきた。
やさしさを疑うことは勇気がいる。
だが、やさしさを信じすぎることは危険だ。
アメリカという国は、建国のときから「正義」を信じてきた。
それは政治のスローガンではなく、宗教に近い。
ピューリタンたちは神に導かれた選ばれた民であり、自らの使命を世界に広めることを“善”と信じた。
この宗教的な信念が国家理念に変わり、「自由と民主主義を広める国」という物語を生んだ。
ベトナムでは「共産主義の脅威」、イラクでは「大量破壊兵器の危険」、アフガニスタンでは「テロとの戦い」。
戦争を起こすたびに「自由」「平和」「人権」という言葉が使われる。
だがその裏で動いているのは、いつも経済である。
石油、兵器、ドル。
戦争は正義の顔をして、巨大な市場を潤してきた。
「悪を倒す」という名のもとで世界は何度も破壊された。
だが、アメリカは決して自分を悪とは呼ばない。
正義を掲げることで、罪悪感は消える。
だから戦争をしても、“良いことをしている”と信じ続けられる。
これが正義中毒の本質だ。
アメリカの教育は、「自分たちは世界の希望だ」と教える。
メディアも「アメリカは正しい」という前提で報道する。
敵がいなければ作り出す。
正義は常に悪との相対によって成り立つからだ。
アメリカにとって“悪”は必要不可欠な燃料である。
悪がなければ、正義というエンジンは止まってしまう。
アメリカ人の多くは陽気で親切だ。
だが、その明るさは複雑さへの耐性のなさでもある。
「白か黒か」「敵か味方か」。
グレーを許せない単純さが、幼稚さの根源だ。
子どものように純粋で、子どものように残酷。
それが、正義を信じすぎた国の姿である。
そして日本は、その正義を輸入した。
自由、平和、人権、環境。
どれも否定しにくい言葉だが、中身を考える力を失ったまま受け入れた。
結果として、「正しいこと」を言えばそれで済む社会ができた。
思考よりも姿勢、実行よりも印象。
これこそ、正義中毒が感染した国の症状だ。
戦後の日本は、アメリカ的価値観を“善意のかたち”で輸入した。
「自由」「平和」「環境」「人権」を掲げながら、本質的な議論を避ける文化が根づいた。
善意を掲げる空気に逆らうことは、悪人扱いされる。
「そんなこと言うなんて冷たいね」と、やさしい言葉で封じ込められる。
日本の善意は、柔らかく人を包み込み、そのまま思考を窒息させる。
行政は「住民のために」と言いながら責任を分散し、教育は「子どものために」と言いながら従順な人間を育て、メディアは「みんなのために」と言いながら同じ言葉を繰り返す。
誰も悪くない。だから誰も責任を取らない。
悪意のある社会よりも、善意だけで動く社会の方が怖い。
悪意は見えるが、善意は見えないからだ。
「悪気はなかった」という言葉が免罪符になり、結果よりも意図が重視される。
意図が善なら、失敗も許される。
だが、そうして社会はゆっくりと幼児化していく。
善意が満ちすぎると、社会は静かに腐り始める。
だれも悪くない。だれも責任を取らない。
その中で、知性が溶けていく。
善意はやさしい顔をして近づいてくる。
その手は温かく、言葉は柔らかい。
けれど、そのやさしさが過剰になると、人を縛る鎖に変わる。
誰も傷つけたくない社会は、誰かの自由を必ず奪う。
無自覚のやさしさほど、人を傷つけるものはない。
教育も福祉も行政も、「よかれと思って」の延長にある。
しかし、やさしさはときに他者を自分の理想に従わせる力として働く。
「あなたのため」が、「私の安心のため」にすり替わる瞬間だ。
善意が支配に変わるとき、それは最も気づかれにくい暴力になる。
悪意は止められるが、善意は止まらない。
感情が理性を支配し、「どう感じるか」だけが判断基準になる。
こうして社会はやさしいが盲目になり、論理よりも共感、事実よりも印象が優先される。
成熟とは、やさしさを疑うことだ。
自分の正義が他人を押しつぶしていないか、自分の安心のために他者の自由を奪っていないか。
そう問い直すことが、思考の出発点になる。
成熟とは、やさしさの中にある暴力性を自覚すること。
そして、その矛盾を抱えたまま他者と共に生きる勇気を持つことだ。
私たちは「良いことをしている」と信じたい。
だが、信じすぎることには危うさがある。
信じた瞬間に思考は止まり、止まった思考の上に「正義」という旗が立つ。
正義は光を放つが、その光の外には見えなくなった影がある。
善意と正義はしばしば手を組む。
善意が温かさを与え、正義が力を与える。
この組み合わせがもっとも厄介だ。
善意があるからこそ正義は自分を疑わず、正義があるからこそ善意は罪悪感を持たない。
私たちは「疑うこと」を恐れすぎている。
だが、疑うとは、壊すことではない。
本当のやさしさを見つけるための行為だ。
成熟した社会とは、「正しさ」と「正しさ」が衝突してもすぐに答えを出さない社会だ。
矛盾を許し、不完全さを抱えたまま前へ進む。
それが人間らしさであり、成熟の証だ。
日本はいま、「善意の国」になった。
だれも悪くない、だれも責められない、だから何も変わらない。
しかし、もう一歩先に進む時が来ている。
善意を手放すのではない。
ただ、その善意を光に透かして見る目を持とう。
そこからようやく、ほんとうのやさしさが始まる。