クリスマスは喜んで祝うのに、正月は何となく過ぎていく。
街はイルミネーションで輝くが、年のはじめの静けさは薄れていった。
正月はもともと、命を数え、感謝を重ねる日だった。
昔の日本では、数え年で歳を取った。
お腹の中にいる命さえも数に入れ、正月にみんなが一斉に歳を重ねた。
それは単なる暦の区切りではなく、命に対する祈りだった。
「生かされていること」への感謝を、共同体全体で確かめ合う時間。
いつからだろう、私たちはその祈りを暦から追い出してしまったのは。
日本は“祭祀の国”だった
日本という国は、根本的に祭祀(さいし)の国だと思う。
祭祀とは、神秘に頼る行為ではなく、祈りの実践そのものだ。
季節の移ろいに耳を傾け、自然や祖先、命に感謝する。
それが、かつてこの国の人々の「生きる姿勢」だった。
天皇陛下は、宗教の教祖でも、政治の支配者でもない。
この国では、天皇は国民のために祈る存在として位置づけられてきた。
私たち一人ひとりの安寧を願い、国の繁栄を祈る。
その祈りを、国民は敬い、感謝の心で受け取ってきた。
そして、昔の日本人もまた、日々の暮らしの中で祈っていた。
「おとうさん」「おかあさん」と呼ぶ声にも、「いただきます」「ごちそうさま」と言う習慣にも、祈りがあった。
天皇陛下の祈りと民の祈りが、異なる次元で響き合い、その共鳴こそが「君民一体」と呼ばれてきたものだった。
それが日本という国の本当の姿だったのではないかと思う。
日常語の中にあった祈り
言葉は単なる音ではない。
一つひとつに、長い年月を生き抜いた祈りが宿っている。
「おとうさん」の“とう”は尊いという意味。
「おかあさん」の“か”には太陽の明るさがある。
家庭を支える両親の呼称には、敬意と温もりの祈りが込められていた。
「いただきます」「ごちそうさま」は、食事の作法ではなく、命の儀式だ。
命を受け取り、他の生命の犠牲によって生かされていることを確かめる。
「ありがとう」という言葉には、“有り難し”――
めったにない恩恵に対する感謝の心が息づいていた。
「おはよう」「おやすみなさい」は、一日のはじまりと終わりに、相手の無事を祈る言葉だった。
「自然」は“自ずから然る”。
人の力の及ばぬ秩序を尊び、そこに身を委ねるという祈りの思想だった。
けれども今、その多くが失われつつある。
「パパ」「ママ」「サンキュー」「ネイチャー」――
軽やかな言葉たちは、響きは柔らかくとも、根にある祈りの層を持たない。
祈りを失った言葉は、心を軽くするが、同時に浅くもしてしまう。
「おとうさん」と「パパ」は意味が違うのです。
風習が変わると、思考の地図も変わる
風習もまた、祈りのかたちを映していた。
正月は共同体の祭りだったのに、いまや商業イベントのように扱われる。
七五三や成人式は写真のための行事になり、お盆は“帰省ラッシュ”と呼ばれる交通ニュースの一部になった。
本来そこには、命をつなぐ祈りがあった。
先祖を迎え、子どもの成長を祝い、新しい年をともに生きることを感謝する。
それを忘れたとき、人は「つながり」を失う。
祈りのない国では、人と人の関係もまた軽くなっていく。
科学と祈り
祈りと科学は、決して相反するものではない。
科学は本来、自然を理解し、敬うための知だった。
「なぜ空が青いのか」「なぜ星が輝くのか」を問う心は、自然を支配したいという欲ではなく、
その美しさに打たれる感性から始まったはずだ。
昔の数え年は、単なる非合理ではない。
そこには、命を個別に分けず、「この世界の一部として生きる」ことを数える合理性があった。
それは、人間中心ではなく、生命全体の流れの中に自分を置くという発想だ。
いま、科学は効率や生産性を求めるあまり、祈りを置き去りにしてしまった。
けれども、人間がどれほど知識を積み上げても、祈りの心を失えば、その知はやがて傲慢へと変わる。
祈りを取り戻す
言葉は思考の器であり、祈りは文化の根である。
言葉を変えるということは、世界の見方を変えることと同じだ。
言葉を軽んじ、祈りを忘れたとき、文化は根を失い、漂いはじめる。
「祈りを忘れた日本人が住む国は、もはや日本ではない。」
それは排他的な意味ではなく、この国の魂をもう一度思い出そうという願いの言葉だ。
祈りは昔に戻ることではない。
「意味を再び生きること」だ。
食卓の言葉に感謝を込める。
朝に祈り、夜に感謝する。
そうした小さな行為が、やがて国のかたちを作り直していく。
日本は、もともと祈りの国だった。
だからこそ、もう一度そこから始められる。
祈るように暮らす人々が増えたとき、日本は再び日本として息を吹き返すのだと思う。
日本は日本人が作る国だ。
今、移民政策やグローバリズムの拡張によって、日本のかたちそのものが揺らいでいる。
けれども、当の日本人が「日本」を忘れているなら、いずれ本当に、日本という国は静かに消えていくのかもしれない。
あなたは、自分が日本人であるという自覚に、確信を持てますか?