自己規律と自由 ― 祈りを生きるということ

言葉を外に出すということ

文章を書くたびに思う。
言葉は、外に出した瞬間から自分を縛る。
あとで読み返すと、「おまえ、その言葉をちゃんと生きてるか?」と過去の自分に問いかけられるような気がする。

でも、その緊張が嫌いじゃない。
むしろ、そこに少しの楽しさがある。
自分で決めた言葉に追いかけられるのは、ある意味、責任を持って生きてる証拠だから。

自由と自律

「自由」って、何をしてもいいことだと思われがちだけど、それだけじゃ息苦しい。
やりたい放題の自由は、結局どこかで他人や状況に縛られる。
誰かに迷惑をかければ、大きな抵抗を生んでしまい、自由に振る舞えなくなる。

本当の自由って、自分を制御できることだと思う。意味としては自律に近い。
風が自由に吹けるのは、大気という縛り=条件があるから。
自分にとっての自由もそんな感じで、自分で決めた枠の中でどう動くかを試すことなんだと考えている。

祈るように生きる

掃除をするとき、手を合わせるとき、刃物を研ぐとき、道具を静かに片づけるとき。
そういう小さな瞬間に、心が整うのを感じる。
それが、私の中では祈りに近い。

祈りって、何かに頼むことじゃなくて、「今日も自分を乱さないようにしよう」っていう小さな誓いみたいなもの。
静かにやることを続けていると、心の芯が少しずつ磨かれていく感じがする。

何かをするとき、それがあの人の役に立って欲しいと思う。これも祈りだ。

つまり、祈りとは、自分を磨くことと他者を思うこと。日常の行動の中に頻繁に現れる行為だ。

規律の中の自由

規律は、窮屈そうに聞こえるが、自分にとっては自由の土台だ。
ルールがあるから、迷わず動ける。
制約があるから、形が生まれる。

言葉を発した以上、その言葉を裏切りたくない。
それが、自分を律する理由になる。
語ったことを生きようとする姿勢そのものが、たぶん自分の「祈り」なんだと思う。

祈りながら生きる。
それは、静かな規律の中で呼吸する自由。
不器用でも、それが自分の態度だ。

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