惰性の文化

惰性の国に生きる

この国には、どこか重たい空気がある。
誰もが「これでいい」と思っているわけではないのに、何かを変えようとすると、たちまち浮いてしまう。

会議では決まらず、現場では動かず、みんなで「無難」という名の安全地帯に逃げ込む。
気がつけば、何も決めないことが一番安全だと学んでしまった。
それが、惰性の文化だ。

惰性とは何か

惰性とは、怠けることではない。
考えることをやめることだ。

新しい提案をすれば、「前例がない」と言われる。
問題を指摘すれば、「波風を立てるな」と諭される。
それでも誰も悪くない。
むしろ、みんな“良かれと思って”そうしている。

だが、善意が惰性に溶けると、社会は腐り始める。
それは静かで、目立たない腐敗だ。


魂なき善人、倫理なき善人

魂なき善人、倫理なき善人。
彼らは悪意を持っているわけではない。
むしろ「いい人」であろうと努めている。
だが、その善意は惰性の中で腐っていく。

惰性の文化とは、考えることをやめた善意の集団だ。
誰も悪くない。だから批判も起きない。
だが、その沈黙こそが、地域を静かに蝕んでいく。

こうした人々が支配する地域では、
本当の意味での「地域おこし」は起こらない。
なぜなら、変化の芽を摘むのは、悪人ではなく、善人だからだ。

惰性が文化になった地方

地方都市に行けば行くほど、この惰性の文化は濃くなる。

誰も争わず、誰も責任を取らない。
役所も、学校も、組合も、同じ顔ぶれが同じ会話を繰り返す。
それが「安定」と呼ばれ、外から来た者が何かを始めようとすると、「まぁまぁ、そんなに急がなくても」と笑われる。

その笑顔は柔らかい。だが、あれほど強固な壁はない。
善意のぬるま湯は、人を眠らせる。

行政が地域おこしを語る矛盾

惰性の文化の中心には、いつも行政がいる。
行政職員にとって最も重要なのは、前例を守り、問題を起こさないことだ。
つまり、変化を避けることが職務になっている。

その行政が「地域おこし」を掲げるとき、そこにはすでに矛盾がある。

地域を動かすのは、制度ではなく人の意思だ。
だが行政は、制度の枠から出られない。
だから彼らの“地域おこし”は、報告書と補助金の中で完結する。

本来、行政の役割は“動かすこと”ではなく、動こうとする人の邪魔をしないことだったはずだ。
しかし今は、制度を盾に現場の動きを縛り、結果として、地域の可能性を奪っている。

惰性を脱する第一歩は、行政が「自分たちがやらない勇気」を持つことかもしれないし、地域おこしをやろうとする人は行政を頼らないことかもしれない。

惰性が奪うもの

惰性は、若者の挑戦心を奪う。
誠実な人の意欲を削ぐ。
そして、地域の未来を静かに乾かしていく。

「これまでと同じ」社会は、一見穏やかに見えて、実は死にかけている社会だ。
呼吸はしているが、鼓動がない。
そんな町が、日本中に広がっている。

惰性を超える道

惰性を断ち切るには、制度ではなく意思がいる。
小さくても、自分たちで考え、自分たちで決める。
正しいことよりも、誠実なことを選ぶ。
失敗を恐れず、学びを共有する。

「変わる」ことは難しい。
だが、「考えること」を取り戻すことはできる。
それが惰性から抜け出す第一歩だ。

沈黙のぬるま湯から出る勇気

惰性の文化を壊すのは、怒りでも正義でもない。
それは、自分の手で動く小さな行為だ。

誰かに任せず、自分で動き、考え、責任を引き受ける。
その一歩を踏み出す人が増えれば、この国の空気は必ず変わる。

沈黙のぬるま湯を出る勇気。
それだけが、次の時代を照らす灯りになる。

コメントする