戦後日本の言論空間では、近年「目が覚めた」と称する人々が増えている。
SNSを中心に、不法移民や外国人観光客への違和感を契機として、自らを“保守的”と位置づけ、高市早苗や櫻井よしこらを称賛する姿が目立つ。
しかしその「目覚め」は、実のところ新しい眠りにすぎない。
彼らが信奉する保守像は、米国的冷戦構造の中で作られた模造品である。
高市や櫻井は一見、愛国や自主憲法を語るが、その根幹にあるのは日米同盟への絶対的忠誠であり、「自立」ではなく「従属の誇り」を制度化した戦後保守の末裔にすぎない。
つまり、彼女らが守っているのは日本の伝統ではなく、占領体制そのものである。
日本国憲法は、制定過程の正統性・正当性・妥当性のすべてにおいて問題を抱える。
占領下という暴力的非対称関係の中で生まれ、国民的熟議を経ずに公布されたその文書は、独立国家の憲法というより「統治命令書」に近い。
にもかかわらず、戦後日本はこの文書を“神聖視”する一方、「改憲か護憲か」という二項対立に社会を閉じ込めてきた。
この構図こそが、まさに米国の Divide and Rule(分断統治) の典型である。
彼らは「自主憲法の制定」を掲げる。
だが、この言葉そのものが致命的な語義矛盾である。
憲法とは、本来、主権者が自ら定める最高規範であり、“自主”であることが前提だ。
「自主憲法」とは、「自家製の自家製パン」と同じ構文上の愚かさである。
それにもかかわらず、この語が公共空間で疑問なく流通している――
この事実こそが、戦後日本が言語の次元で占領を受け入れた証拠である。
言葉が奪われた社会では、思考もまた他者の文法の中でしか動けない。
日本人は、法を論じながらも、その土台となる言葉の主権をすでに手放してしまっている。
「自主憲法を標榜する」と口にする瞬間、人は自らの従属を肯定しているに等しい。
それを理解せぬまま「保守」を名乗る者は、もはや保守ではなく、植民地語を操る操り人形である。
言葉の感覚を取り戻さなければ、いかなる思想も立ち上がらない。
この国の再生は、まず語彙の回復から始まる。
それが、目覚めた夢を終わらせる唯一の道だ。
そして、もうひとつの呪いがある。「主権」という言葉だ。
憲法原文の sovereign power は、本来「最高権力」と訳すべきものであり、「主権」という語の“主”は、神を意味する。
つまり、主権とは神の座を政治に移した装置にほかならない。
日本国憲法がこの語を採用した瞬間、日本人は「神の代わりに国民を祀り上げる」構図に組み込まれた。
主権への批判が宗教的反発を呼ぶのは当然だ。
それは信仰体系への異議申立てだからである。
日本語の文法に馴染まぬ「主権」という外来の偶像。
その偶像を崇める限り、この国の政治は永遠に“誰かの上”を仰ぐ構造から抜け出せない。
主権という言葉は、自由の象徴ではなく、思考を垂直に閉じ込める宗教装置なのだ。
「護憲」も「改憲」も、同じ檻の中での議論だ。
占領体制を前提としたまま、その内部で立場を争っている。
高市や櫻井の言説は、この構造を疑うことなく再生産している点で、真の保守ではなく、体制維持の番人である。
彼らの語る「日本を取り戻す」は、実際には「戦後体制を維持する」という意味にすり替えられている。
占領体制とは、巨大な広場のようなものだ。その周りには目に見えない柵が張られている。
その上で人々は、護憲か改憲か、右か左かを叫びながら、椅子取りゲームのように空席を奪い合っている。
だが、その椅子も、音楽を鳴らす笛も、すべて占領者の所有物だ。
どの椅子に座っても、誰かのルールの中で動かされている。
だから、問題は「どの椅子に座るか」ではない。
「なぜこの広場で遊ばされているのか」を問うことだ。
その問いを立てた瞬間に、人は初めてゲームの外に立つ。
それこそが、本当の意味での“目覚め”である。
本来の保守とは、国家の自立と共同体の尊厳を守る姿勢である。
その根底にあるのは、外圧への従属ではなく、内側からの覚醒――自ら考え、決め、責任を引き受ける精神である。
だが今の「目覚めた」人々は、思想的に自立する前に、他者の用意した言葉に安住している。
彼らの目覚めは、「目覚めた夢」にすぎない。
本当の目覚めとは、誰かを信じることではなく、疑う力を取り戻すことである。
どの陣営の言葉にも隠された力学を見抜き、「誰の利益か」「誰が語っているのか」を自問し続けること。
国家や憲法を論じる前に、自らの思考を他者の枠組みから解放する――そこからしか、自立は始まらない。
戦後八十年、私たちが本当に目覚めるとは、この国の未来を「与えられるもの」ではなく「引き受けるもの」として見ることだ。
その瞬間に初めて、日本は占領の夢から醒める。
良い目覚めを。
「目覚めた夢 ― 模造保守と戦後日本の病理」への1件のフィードバック