理念や理想は本来、人を導く灯りのはずだった。
だが、現場を離れた理念は、やがて現実を壊す刃になる。
意識高い系と呼ばれる人々の営みを見つめながら、
“働くこと”“継ぐこと”“作ること”の本当の意味を考えたい。
理念と現実の乖離
理念を語るのは簡単だ。けれど、手を動かさない理念は、やがて現実を食いつぶす。
理念は、人を勇気づける。
だが、現場を知らない理念は、現実を軽く見てしまう。
「多様性」「共感」「持続可能性」——
どれも美しい言葉だが、使う人の手が汚れていなければ、ただの飾りになる。
理念が現実の上に立つと、現実は理念の引き立て役にされる。
活動報告と称して並べられる言葉の中に、汗や責任の匂いがないとき、その理念は空洞化している。
思想を装う安心感
理解よりも「理解している気分」を求める人が増えた。
思想はいつの間にか、安心を得るための衣装になった。
人は「分かっている」と思いたい。
だから、思想を学ぶよりも、“理解している風”でいたいのだ。
これは人間の脳の仕様。
難しい言葉や横文字を並べ、引用を重ねる。
だが、現場で試さない思想は、ただの飾りになる。
本物の思想は、現実を変えるためにある。
それを装飾に変えてしまうと、人は成長を止め、同じ言葉の輪の中で安心を回し合うだけになる。
技術と努力の欠落
「感性」や「直感」は、美しい言葉だ。
だが、それを免罪符にして努力を避ける人が増えている。
感性は技術の果てに生まれる。
技術の裏づけを持たない感性は、偶然を「個性」と呼びかえるだけだ。
今、“芸術”と称するものの中には、努力の不在と修練の欠落があからさまに見える。
芸術には、明らかなArtの誤訳が含まれている。
本来のArtは芸術の術であり、技術の術である。
術は熟練の末に獲得できる技のことである。
その技の先に感性が現れるのだ。
「味」と言われる未熟。
「自由」と呼ばれる怠慢。
それは感性ではなく、無知の慰めだ。
職人は知っている。
感性とは、努力を尽くした人だけが掴める“静かな感覚”であることを。
善人の暴力
「あなたのためを思って」。
その言葉の裏にあるのは、他人を理解する意志ではなく、自分の安心を守る心だ。
共感や優しさは、人を包みもすれば、締めつけもする。
「対立を避けよう」と言いながら、異なる意見を排除し、「みんな仲良く」と言いながら、個性を押しつぶす。
優しさの言葉ほど、無自覚な暴力を孕んでいる。
調和とは同調ではない。
異なるものとぶつかり合いながら、関係を磨くのが本当の調和だ。
だが、善人の共同体はそれを恐れる。
だから、彼らの世界は柔らかいが、深くならない。
継承なき理想 — 次の世代を忘れた町おこし
大人には、次の世代のために場所を整える責任がある。
それを放棄して、理念や活動に逃げ込むのは、立派な装いをした“現実逃避”だ。
町おこしを語る人たちの多くは、
「今の自分を肯定するための活動」をしているだけだ。
助成金に頼り、理念を掲げ、行政と写真を撮る。
しかし、彼らが次の世代に残せるのは、報告書とチラシだけ。
かつての職人たちは、型や工具を残した。
それが文化の継承だった。
いまの“意識高い大人たち”は、言葉だけを残して満足している。
未来は語るものではない。
未来は、渡すものだ。
理念を継承に変えるには、手を動かす覚悟がいる。
責任のない理念は、未来を焼き尽くすだけだ。
技を積む静かな歩み
理想を語る町は、声が大きい。
ZIKUUは、まだ声を上げるほどの実績はない。
けれど、手は動かし続けている。
目立つ成果よりも、確かな仕組み。
理念を飾るよりも、次の世代が使える環境を整える。
その一歩一歩が、やがて誰かの土台になる。
ZIKUUを建設したのは、十年後に通用する人を育てるため、残し継ぐもの——施設や設備、仕組み、智恵——を一箇所に集めることが目的だった。
そのために、毎日、隙間なく、手と頭を動かして続ける。
それが、私やスタッフの責務だと思っている。
ZIKUUにあるのは、壮大なビジョンではなく、志と現場だ。
木を削り、鉄を磨き、データを扱い、AIを試す。
その積み重ねが、静かな文化を育てていく。
十年後、そこに何が残るか。
それが答えになるだろう。
声ではなく、手で示す。
それが、志を現実に変える唯一の道。