エネルギーの幻想と現実

「自然エネルギーで暮らそう」「脱炭素で地球を守ろう」。
そんな言葉が、いま日本のあちこちで聞こえる。
だが、どれほど心地よく響く言葉であっても、自然と社会の仕組みは、感情だけでは動かない。

私は、そういう言葉を吐く人たちを見て、
「この人たちは本当に子どもたちの未来について考えているのだろうか」
と思ってしまう。

たとえば、小水力発電や太陽光パネルを地域で導入しようという試み。
一見、環境にも人にも優しい活動に見える。
けれども、日本のように山が多く、人が密集して暮らす国でそれを広く行えば、生態系のバランスを崩し、景観を変え、むしろ自然を傷つける結果にもなりかねない。
「自然エネルギー」が自然を蝕む――そんな逆説が生まれる。

エネルギーの本質は、目に見えにくい。
電気も燃料も、私たちの生活を支える「血流」のようなものだ。
その流れが細くなれば、生産活動は縮み、仕事も暮らしも、次第に痩せていく。
「脱炭素」を掲げながら「子どもの未来を守る」と語るのは、どこかで矛盾を抱えているように思える。

石油や石炭が持つエネルギー密度は、自然界の奇跡といっていい。
ガソリン1リットルが生み出す力を、人の筋肉でまかなうには、膨大な量の食料と時間が必要になる。
自転車は健康には良いが、エネルギー効率という観点では決して「エコ」ではない。
「エコな感じ」と「本当にエコ」は、しばしば真逆なのだ。

私がロードバイクで長距離を走っていた頃、人間の補給に使われる金額は、車で行った場合のガソリン代より高いという現実を見た。食品や飲料は、生産・物流という工程を経て店頭に並ぶが、その工程のいたるところで石油エネルギーを使う。ガソリンから直接動力を取り出す方が安くなる。身体も疲れない。

ZIKUUでは、しばしば木を使って日用品を作るが、それだって、石油から作られた製品よりも高くなる。
なぜなら、それらの石油製品は、石油の精製過程の残り物で作られる場合が多く、材料原価がものすごく安いからだ。

現時点で、社会全体を支えうる現実的な選択肢は、化石燃料か、あるいは核エネルギーしかない。
理想を語ることはかまわない。
しかし、物理法則に逆らう理想は、もはや夢ではなく幻想になる。

文明とは、エネルギーをどう扱うかの知恵の歴史でもある。
火を使い、水を制し、風を帆に変えてきた人類は、いつの時代も「限られたエネルギーを、いかに公平に、いかに持続的に使うか」を問われてきた。
私たちもその延長線上に生きている。

もし本当に、子どもたちの未来を思うのなら――
気持ちのよい言葉ではなく、エネルギーの現実に立ち返る勇気を持ちたい。
地球を救うのは「正しさの宣言」ではなく、現実と向き合う冷静な知恵だ。

「エコな感じ」と「本当にエコ」の区別がつかない、矛盾した思考を続けていては、いずれ精神を病むのではないかと心配になる。
あるいはすでに病んでいるのか。

気持ち良さそうにしていることが、あなたの子どもたちの未来に希望をもたらすのか。
よく考えて欲しいと思う。

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