私は神奈川県の横浜市と鎌倉市の境にある大船という地で産まれ育った。鎌倉の寺社や葉山や湘南の海で遊び、横浜で買い物をする。
人は、生まれ育った環境に強く影響を受けると思っている。だから、この地域が歴史的・考古的にどういう場所だったかを読み解き、それが文化的・文明的にどうつながるかを知れば、自分を知る助けなるかもしれない。
調べてみると、この地域は結構面白い。
では、早速、考察してみます。
大船・鎌倉・湘南・横浜を貫くもの―日本文明の断面
考古的層 ― 海と山のあいだに生まれた感性
この地に最初に人が住みついたのは、海がいまよりも深く入り込んでいた縄文の頃。
逗子丘陵や鎌倉の谷戸には貝塚が点在し、山と海のあいだで暮らす人々が、潮の満ち引きや風の向きを読んで生きていた。
「自然の変化を観察し、そこに意味を見いだす」という暮らし。
それは、農耕文明が言葉や文字を生む以前の、身体で感じ取る生活だった。
日本の美意識の根は、すでにこの海辺に芽生えていた場所だった。
歴史的層 ― 武士の都が生んだ行動の思想
鎌倉幕府の成立は、東国の民が初めて自らの手で政治を行った出来事だった。
山に囲まれた盆地に都を築き、外界から隔絶された空間で、
人々は「義」「連帯」「行動」を軸にした新しい政治と倫理を形成した。
鎌倉文化は、京の洗練とは違い、土の匂いと汗の混ざった実践の文化だった。
質実剛健、質素。それが美風。
ここでは「考える」より先に「動く」、「信じる」より先に「やる」。
この姿勢が、のちに禅や工芸や文学にも通じ、日本人の行動原理の原型となった。
民族的層 ― 海民と山民の融合
鎌倉から大船、藤沢にかけての地帯は、古くから海の民と山の民が交わる境界だった。
海人族の信仰、山の修験、渡来人の技術。
それらが混ざり合い、混血的で力強い生活文化を形づくった。
この土地に残る祭祀や工芸の技、信仰の多様性は、その痕跡だ。
つまり鎌倉文化とは、純粋な日本文化というよりも、異系の融合が生んだ「東国的ハイブリッド文明」だった。
文化的層 ― 湘南・横浜に花開いた感性の再構築
明治以降、横浜は異文化の入口となり、鎌倉・湘南はその受け皿として「再解釈の地」となった。
芸術家や思想家たちは、海辺の光の中で、西洋と日本のはざまに立つ自分を見つめ直した。
ここで育まれたのは、「文明を輸入する知」ではなく、自らの身体感覚に戻す知。
それが「湘南文化」と呼ばれるものの本質だ。
ZIKUU文明地図 ― 手と知の再結合
この四層の上に、現代のZIKUUがあるのかもしれない。
ZIKUUは、逗子の祈り、鎌倉の思想、大船の技、横浜の翻訳を受け継ぎ、それらを「手で考える知」として再構成する場所である。たまたまかもしれないが、実際に、そうなっている。
山 ― 祈りと観察(逗子)
長柄桜山の丘に立てば、縄文の人々が見た風が今も吹く。
自然の声を聴くこと、それが感性の始まりだった。
祈りとは、内省的に自分を磨くことであり、他者の喜びや利便を願いながら行う行為でもある。
モノづくりの中には確かにそういうものがある。
谷 ― 思索と修行(鎌倉)
閉じた谷戸の静けさは、人を内へ向かわせる。
禅も武士道も、この地形が生んだ精神のかたちだ。
質素、質実剛健。そういう気風がここにもある。
原 ― 技と生活(大船)
谷から流れ出た人と物が集まり、町となり、産業が芽生えた。
技術はここで日常と結びついた。ZIKUUの工房は、その記憶の継承だ。
海 ― 翻訳と交歓(横浜)
異国の船がもたらした知と技術は、この港から日本中に広がった。
翻訳とは、異質を自分の身体に取り込む行為である。
ZIKUUもまた、AIやデジタルを単なる輸入ではなく翻訳している。
再結合 ― ZIKUU
山で感じ、谷で考え、原でつくり、海で交わり、
ふたたび手の中に知が戻る。
ZIKUUは、祈り・思想・技術をもう一度つなぎ直す場所であるかもしれない。
結び
この土地は、日本文明の断面である。
海と山、自然と人、外来と土着、思想と技術。
それらが重なり、分かれ、また一つに戻っていく。
ZIKUUは、その循環の上に立つ現代の谷戸なのかもしれない。
今は、山梨県上野原市と大船の二拠点生活をしている。
鎌倉文化や湘南文化の風を上野原に吹かせる、みたいなカッコいいことを言うつもりはない。
でも、多少は誰かに何かに影響を与えられたら面白いと思う。
みなさんも、自分が生まれ育った土地の、文化・文明の軌跡をたどってみてはいかが?
逗子の風、鎌倉の静寂、大船の音、横浜の光。
そのすべてがZIKUUの中で再び息づくとき、
日本の知はもう一度、手と心の共同作業として立ち上がる。