日本には、昔から“全体が結び合って成り立つ”という感覚があった。
縄文の人たちは自然を観察し、森も獣も人間も、互いに絡み合って循環していることを理解していたと言われる。
記紀の時代になると、この感覚は「むすひ(結び)」という言葉になって現れる。
和、調和、共にある、という日本的な空気の源流もここにある。
結びは、単なる精神論ではない。
構造の話だ。
男女が結ばれて家庭ができ、世代が繰り返される。
親と子、そのまた親。
家族と家族、村と村。
時間軸まで含めて層のように重なり、結びつきながら続いていく。
人間の役割も、この結びの構造に適合して形づくられてきた。
広い範囲を見渡し獲物を追い、外から来る危険を察知する役割と、身近な子どもや生活空間を守り、細やかな変化に気づく役割。
それぞれが違う領域を担うことで、共同体全体の安定が保たれる。
誰かが優れているとか劣っているという話ではなく、
役割が異なるから、結びが成立する。
結びがあるから、生態系として完結する。
いまの言葉で「平等」とまとめようとすると歪むのは、この構造が抜け落ちるからだ。
結びは、人間同士だけを指すわけではない。
家も道具も、自然も、動物も、全部どこかで“自分の外の自分”として扱ってしまう日本人特有の感覚がある。
車やバイクに名前をつけるのもそうだし、「日本人は天皇の赤子」という言い回しも、結びの発想の延長線にある。
見渡せば、人間も犬も草も木も魚も、同じ炭素が形を変えただけの存在だ。
境界はあるようで、実は曖昧。
宇宙の一部が、たまたま今この形をしているだけだ。
そう思えば、自我なんて“単独では成立しない幻影”のようなものだとわかる。
人は一人で生きられない。
生きられないものは、結びの構造に従って生きるしかない。
だからこそ、男女平等だの、脱炭素だの、弱者の権利だのと言っても、結びや絡合の構造を理解していないと、どこかで適合しなくなる。
結局のところ、
日本人は結びのOSを持った民族
というだけの話なのだ。
そのOSに合わせて生きる方が、心も身体も自然でいられる。
日本人になろう。
いや、思い出そう。
もともと持っていた“むすひ”の生き方を。