iPadは学習端末なのか

教育の目的は、立派な大人、考えられる大人、自立した人格を育てること

最近、高校のICT教育の一環で、生徒にiPadを購入させる学校が増えている。
しかし、その負担は決して小さくない。
十万円近い出費になることもあるので、家計に余裕のない家庭では大きな負担となっているという。

この状況を見て、私はずっと違和感を抱いている。
それは「本当にそれは子供のための教育なのか」という疑問だ。

子供のためと言いながら、子供のことを考えているようには見えない。
これは学校に限った話ではない。
大人の社会そのものが、「今だけ、金だけ、自分だけ」に傾きがちになっている。

学校現場でも同じ構造が見える。
導入が楽で、管理が簡単で、トラブル対応が少ない。
その結果として選ばれているのが、iPadだ。

iPadが選ばれる理由

iPadは優れた端末である。
画面は美しく、操作は直感的で、教材の配布や閲覧には向いている。
だが、それは「消費する道具」として完成度が高い、という意味でもある。

一方で、学習に本来必要な要素――
ファイルの構造、データの所在、処理の流れ、エラーへの対処といったものは、iPadではほとんど見えない。
壊れたときに自分で直す余地もない。
基本的には「正しく使う」ことしか求められない。

これが、最適な学習環境と呼べるだろうか。

中古PCにLinux

中古のノートPCにLinuxを入れれば、話はまったく変わる。
2万円から3万円もあれば、十分な性能の環境が手に入る。
私が普段、執筆やプログラミング、ネットワーク管理に使っているノートPCはそういうものだ。7年前のPCが現役。

文書作成、プログラミング、ネットワーク、サーバ、バージョン管理まで、大学初年度から社会人初期レベルの作業を一通り経験できるし、プロの道具としてさえ使うことができる。

トラブルが起きるのもいい。
起動しない、ネットにつながらない、表示がおかしい。
だが、それらはすべて「考える材料」になる。

なぜ動かないのか。
どこで止まっているのか。
何を変えれば直るのか。

これこそが学習だ。

身近な実例

ここで、身近な例を一つ挙げたい。
私の妻は、もともとLinuxなど想定外の人間だった。
プログラミングの経験もゼロで、ITに特別強いわけでもない。

中古のデスクトップPCにLinux Mintを入れて使い始めた。
最初は戸惑いもあったが、操作にはすぐに慣れた。

わからないことがあれば、ChatGPTに相談する。
調べながらネットワーク設定を行い、簡単なプログラムを書くようになった。
気がつけば、GitHubまで使うようになっている。

重要なのは、特別な教育をしたわけではないという点だ。
「わからないことを自分で調べ、自分で解決する」
その癖が、自然と身についた。

大人になってからでさえ、このような進歩があるのだから、頭の柔らかい若者に何が起きるかは容易に想像できるだろう。

これは才能の問題ではない。
環境の問題だ。

学校側の選択

では、なぜ学校はこの選択をしないのか。
理由は単純だ。
教える側が、その環境を扱えないからである。

Linux環境を整え、トラブルに向き合い、仕組みを説明するには、教師側にも知識と経験が必要になる。
それを避けた結果が、「一斉配布できて、壊れたら交換するだけ」の端末だ。

だがそれは、教育の都合ではない。
運用側、大人側の都合にすぎない。

ICT教育とは、端末を使わせることではない。
大人が作った教材をなぞらせることでもない。
仕組みを理解し、問題に向き合い、考えて手を動かす力を育てることだ。

便利な道具は、時に学ぶ機会を奪う。
子供のためと言いながら、大人が楽をする構造になっていないか。
そこを問い直す必要がある。

中古PCにLinux。
それだけで、多くの高校生に、ずっと先まで使える基礎体力を渡すことができる。

そしてより大きな構造の問題

この背後には、もっと大きな問題が潜んでいる。

それは、人々が愚かである方が都合のいい社会構造が、静かに完成してしまっていることだ。

こういう話を始めると、陰謀論的に話を展開する人が多いが、そうではない。

これは、構造の問題。

第一に、管理する側の合理性。

  • 失敗が少ない方がいい
  • トラブルは起きない方がいい
  • 例外は減らしたい
  • 説明コストは下げたい

→ 考えさせない方が楽。

第二に、システムの最適化という合理性

  • 端末が同一だと管理しやすい
  • 操作が画一化されている方が管理しやすい
  • 判断は不要
  • 逸脱が起きにくい

→ 考えない人間の方が扱いやすい。

第三に、教育の本来の目的からズレる

本来の教育は、

  • 問題に直面し
  • 試行錯誤し
  • 失敗し
  • 修正する

という過程で、自律した判断力を育てるというもの。

ところが、

  • 失敗が起きない環境
  • 正解だけが用意された環境
  • 逸脱できない環境

では、判断力そのものが育たない。

誰かが人間を愚かにしようとしていなくても、

  • 考える人は面倒
  • 例外を生む人は管理コストが高い
  • 問いを立てる人は扱いにくい

という理由で、考えない人が望ましい利用者になる。

その延長線上に、

  • 踊る消費者
  • 従順な労働者
  • 指示待ちの市民・国民

が量産される。

これが、合理的に選択された構造なのだ。

これが支配しやすい構造で、教育、IT、行政、企業、メディアの全部に同じ傾向がある。
考えない大衆が支配する側には都合がいい。
誰かの悪意ではなく、合理性の副作用として構造なのだ。

お願い

若者たちには、ぜひ、社会がこのような構造の上で動いていることを知って欲しいし、大人たちには、この構造の中に安住してはならないことを自覚して欲しい。

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