観察し続けることこそが才能である
これはレオナルド・ダ・ヴィンチが語った言葉。
彼は「芸術と科学の境界を越えて、自然を観察し、そこからアイデアを得る」ことに何十年も費やし、数えきれないほどの図紙を残した。
作品に見る精密さは、何度も観測を繰り返した結果であり、観察の積み重ねが彼を支えていると言っていい。
観察し続けることが才能。
「モノづくり塾」での日々も観察の連続だ。
言い訳
あの人には才能がある、あの人は天才だ。
この言葉は、自分が努力しない、選択しない、ことの免罪符として使われる。
あの人には才能があるからできるんだ。
私にはできない=やらない。
ZIKUUの工房では、様々な試作と検証が繰り返される。
そこでは「観察」「身体で試す」「変化を見つめる」という三つの行動が循環する。
そして何度も試行錯誤した結果、設計が定まっていく。
こうしたプロセスは、ダ・ヴィンチがスケッチブックに描いた数千枚の草案と基本的に同じ構造だ。
観察は誰にでもできる。
いわゆる才能はいらない。
できる・できないの判断は急がなくていい。
これは自分の役割で、それは人の役割じゃない。
そう言って、やらない理由を並べる。
でも、必要なのは観察とそれに伴う作業だけ。
身体知へ
「観察は耐久力」というフレーズは、ただ「長く観察し続ける」ことを意味するだけではない。
観察自体が一種の修行であり、そこから得られる知識を身体に落とし込むことが「才能」と呼ばれる本質だと私は考える。
これは私は身体知と呼んでいる。
ダ・ヴィンチは自然界の細部に宿る物理法則を観察し、そこから発明や絵画へと結びつけた。
彼の観察は単なるデータ収集ではなく、観察された現象を自分の身体で再現し、感覚として体得する過程を含んでいた。
観察は教えられない
ZIKUUでは観察を教えることはない。
教えられないからだ。
その代わりに、観察をする場所と機会を用意している。
それだけで十分だと思っている。
観察→試行→反省→改良。
観察は単なる目視に留まらず、触覚、音、感触といった全身での感覚を通じて行う。
例えるなら、風船を膨らませてバランスを試す際、風の流れを肌で感じ取りながら調整するという感じだ。
こうした身体的感覚は、ダ・ヴィンチが風洞実験で風の影響を観測したように、実際の力学を身体で体感することを意味している。
このように、ダ・ヴィンチの言葉とZIKUUの活動は「観察」続けるという点と、観察が「身体で試す」こと、そして「変化を見つける」ことへと発展している点が同じだ。
才能は観察の積み重ねとその観察を身体で実践し、結果を見極める「耐久力」の結晶であると言えるだろう。
まとめ ―― 才能は育てることができる
- 観察:自然・素材・アイデアをじっくり見る
- 身体で試す:手や体を使って実際に動かし、感覚で確認
- 変化を見つめる:試行錯誤の結果を観察し、改善へと結びつける
ダ・ヴィンチは「観察こそが才能の源」と語った。ZIKUUでは、観察から身体的試行、変化の検証というサイクルを繰り返すことで、彼が示した「才能」の定義を実践する場所を用意している。
そして、観察は、自分がわからない、未完成である、だから、見ることと見るものを選ぶということだ。
才能は誰でも育てることができる。