最近の日本社会では、さまざまな問題が同時に噴き出している。
毎日、SNSではアイツが悪い、コイツが悪いと言い合っているが、一向に問題は解決しない。
移民政策、ジェンダー政策、そしてソーラーパネルによる環境破壊。
まるで別々の議題のようだが、実は根は一つの「構造」にある。
それは、国際機関が決めたテンプレートに沿って政策を作る日本の官僚制度だ。
国際テンプレートに従う構造
日本の政策は、しばしば「国際的に遅れている」と批判される。
だから省庁は「国際基準に合わせる」ことを最優先にする。
しかしこの「合わせる」という行為こそが、構造的な従属を生み出している。
マスコミもしきりに「バスに乗り遅れるな」とやるのも、この流れを煽っている。
国連やOECD、世界銀行などの国際機関は、
SDGsやGCM(移民グローバル・コンパクト)といった協調枠組みを次々に提示する。
大規模財団やESGファンドは、それに沿った資金を世界中に流す。
日本の官僚は、その資金と評価のルールに政策を適合させることで、
「国際社会と足並みを揃えている」とアピールできる。
その先には、立法、外郭団体設立、天下りという流れもできる。
国際的な枠組みに従順ならば、出世も高収入も期待できるわけだ。
つまり、国際枠組みが目標を決め、官僚がそれに忠実に従う構造が存在している。
誰も命令していないのに、政策の方向が揃う。
それが、現代の“自動操縦型”統治の正体だ。
ソーラーパネルと移民政策が示す「構造的服従」
環境政策を例に取ろう。
「脱炭素」「再エネ推進」という言葉のもとに、
全国で山を削り、ソーラーパネルが設置されている。
環境省はCO₂削減の数値を国際公約として掲げており、
この数値を達成することが役人の“業績”になる。
その結果、現場の安全よりも、国際報告書の整合性が優先される。
自然を守るはずの政策が、自然を壊す皮肉な構図だ。
移民政策も同じだ。
国連のGCMに沿って「安全で秩序ある移住」を目指すという美名の下、
政府は外国人労働者の受け入れを拡大した。
だが現場では、言葉も文化も通じない職場が増え、
地方社会の負担が静かに膨らんでいる。
国際社会の“模範国”を目指すほど、国内の足場が揺らぐ。
ここでも、国際評価を優先した政策が、国内秩序を弱めるという矛盾が生まれている。
官僚制度の中にある憲法のねじれ
この構造を支えているのが、戦後に作られた官僚制度だ。
憲法第15条は「公務員を選定し、これを罷免することは国民固有の権利」と明記している。
本来、公務員は選挙を通じて選ばれた者、またはその補助者を意味する。
ところが、国家公務員法では「国民が選ばない官僚」が“公務員”として制度化されている。
ここに、憲法と法律のねじれがある。
その上、役人の評価は「国際整合性」「前例の遵守」「調整能力」で決まる。
国民の利益よりも、省庁の秩序を守ることが優先される。
結果として、優秀で真面目な人ほど「構造の歯車」になっていく。
悪人が国を動かしているのではなく、構造そのものが悪人化しているのだ。
構造が悪いがために、善人が悪行を働いてしまう。
個人攻撃をしたところで、構造が悪いのだから、終わらない。
評価制度を変えるという現実的な一手
政治を変えたいなら、人を変えるのではなく、仕組みを変えることだ。
とくに効果的なのが、官僚の評価制度の再設計である。
- 省益ではなく、国民の長期的利益(LPI:Long-term Public Impact)を評価指標にする。
- 外部(民間・学識・元官僚)による独立人事審査機関を設ける。
- 昇進条件に「政策提言」「公開討論」「透明性報告」を加える。
こうした評価軸が入れば、
国際整合性よりも国民成果で動く行政に変わる可能性がある。
そして同時に、国民側も「仕組みを見る目」を養うことが求められる。
どの構造が国を動かしているのかを理解し、議論する社会へ。
構造を見る、そして構造を動かす
構造を知ることは、無力の確認ではない。
むしろ、構造を見抜いた者だけが、構造を動かせる。
政策は人の意思で作られるが、仕組みは意思を超えて人を動かす。
だから、まず見て、そして設計する。
国を取り戻すとは、
「誰が悪いか」を探すことではなく、
「どんな仕組みで動いているのか」を理解し、
その仕組みを設計し直す力を社会が持つことだ。
移民も、ジェンダーも、ソーラーパネルも、
すべては一つの構造の表れに過ぎない。
だからこそ、私たちはその構造の外側に立ち、
構造を動かす手を取り戻さなければならない。
さもなければ、構造をつくる者たちの手のひらの上で踊り、いがみあうだけだ。
石破さんか、高市さんか、という問題じゃないんです。
「移民、ジェンダー、ソーラーパネルの問題は、国際テンプレートに従う官僚制度にあった!」への1件のフィードバック