大谷翔平選手を筆頭に多くの日本選手が海外の選手と渡り合ってWBCで優勝しました。大谷選手に関しては大リーグ屈指の名選手という呼び名も高いです。ボクシングの井上尚弥選手しかり、世界に伍して活躍する日本人は少なくありません。何を隠そう、私が以前勤めていたシリコンバレーのコンピューターメーカーでは当時の同僚たちが一線で活躍しています。
それはそうなのですが、現在の日本の位置はそれほど良くはありません。
モノづくり塾『ZIKUU』ではモノづくりの工程にデジタルの要素を入れ、IT分野の学習もできるようにするために数台のコンピューターを新たに導入する予定です。
一台はAI学習用のコンピューターです。業務用のGPUと高速なCPUを搭載したPCです。これでディープラーニング(深層学習)を主に自分でAIシステムを作って動かすというところまで学べるようにします。
最近話題のChatGPTやその他の商業規模で展開されているサービスは1万ドル以上の高価なGPUを1万個も購入できるような大企業が提供しています。我々はそれと同等のものは資金力の差があり過ぎて追従することはできませんから、とにかく「仕組みを作ることができる・仕組みを理解することができる」を主体に勉強できるようにします。短期的にはChatGPTを使うプロンプトエンジニアのような人材が持て囃されるかもしれませんが、ZIKUUが重要視するのは10年後です。当座の利益追求ではなく未来のために人に投資するのです。
もう一台のコンピューターはCAD/CAMや3Dグラフィックスを学ぶためにものです。AI学習用ほどの計算能力は必要ありませんからそれほど高価なものではありませんが、ZIKUUが対象とする小中高生たちが入手するには少し敷居が高いです。
他にはプログラミングの勉強をするためのLinux搭載のコンピューターが数台。これは自宅で学習を継続できるように、可能ならば塾生が自ら入手して欲しいですが、学習の一貫としてプログラミング用のコンピューターを自分で構成して組み立てるというテーマがあっても良いかもしれません。ただし家庭の経済状況によっては月謝で精一杯ということもあるでしょう。そんな場合は極力ZIKUUから貸出機を提供できるようにしたいと考えています。
こんなことを考えながら、ZIKUUオープンに先んじて塾長である私が事前学習をしているところです。
ひとまずCAD/CAM用のコンピューターを一台組んでみようと思い、先日部品を発注したんですが、その中に日本製部品が一つもありません。
日本製はゼロ。
これ以上減りようのないゼロです。
一時期はNEC、富士通、東芝、ソニー、パナソニックなどの日本企業がPCを作って販売していましが、NECと富士通のPCは中国のLenovoが、東芝のPCは台湾企業に買収されたシャープが製造しています。CPUもGPUも日本製はありません。かろうじてメモリーやSSDなどの記憶装置は日本製がありますが、全体から見たら少数派です。
日本企業は小さな部品レベルでは競争力を維持していますが、コンポーネントレベルになると弱いのです。
PCメーカーの売上は数兆円規模です。そんな企業がいくつもあって、それが日本から消えています。
自動車メーカーの直近の年間売上は、トヨタ31兆円、ホンダ9兆円、日産8兆円、スズキ3兆円ですから、いくつかの自動車メーカーが日本から消えたくらいの規模です。自動車と違って部品の内製率が低いPCですので傘下の部品メーカーを合わせた規模の縮小率は小さいかもしれませんが、それでも決して小さくない数字です。
高性能な半導体製造で巻き返しを図るべく新たに企業ができていますが、投資規模が台湾や韓国の半導体製造企業とは桁違いに小さいです。どうなることやら。
ZIKUUが重要視するのは10年後だと書きました。私は預言者ではありませんから10年後の日本社会が確信をもってこうなるとは言えませんが、例えば最近のAI開発競争しかり、テック企業のマスメディア化、AI搭載監視カメラの普及、中央銀行デジタル通貨への移行の流れなど見ると、中には「デジタルの神(digital god)」を作るんだというAI開発者の発言なども見られますが、デジタル統制社会に向かっているように思えてなりません。そしてその社会を支配する者が誰か。そのために競争しているように見えます。
今、世界は混乱期です。食糧危機、エネルギー危機、通貨危機、戦争や紛争など世界中が混乱しています。多少はメディアが煽っている様子もあるので、危機の演出という面もあるかもしれませんが、限定的ではあるにせよ危機が迫っているように見えます。
あくまでも個人的な「読み」なのですが、一通りの混乱が沈静化したときはデジタル統制社会が出現しているということではないかと踏んでいます。それがだいたい10年後だろうと。
その時に支配的な側で活躍して生きていくのか、支配をやり過ごして息を殺して生きていくのか、支配されるがままに我を捨てて生きていくのか。そういう選択に迫られた時に塾生がどの道を選ぶのか、あるいは選べるのか。10年後への関心というのはそういうことです。