もう一度アートについて

生成AIに校正してもらった過去の投稿を再掲載します。比較して読んでみると如何に私の文章が下手くそなのかがわかって恥ずかしいですが、主張したいことが抜けることもなく校正されるので、文章の下手な私が言うのも変ですが使えるなという印象です。

使用したのは塾のサーバで稼働させているDifyで構築したGemini 1.5 Proを使ったチャットボットです。RAGを使って過去の私のブログ文章を参照するように作ったものとそうでないものが稼働していますが、これはRAGを使っていない方で出力しています。サーバーはIntel Core i5 13400を搭載したものですが、高速な反応で使い勝手がとても良いです。

では校正された文章をご覧ください。

元々は、「術」という言葉が、芸術と技術の両方を表していたようです。しかし、産業革命の頃を境に芸術と技術は分岐し、現代では主に前者をアートと捉えることが多いようです。

日本の場合は、アートという言葉は江戸時代から明治時代にかけて輸入された概念であるため、文化的、感覚的にその本来の意味に馴染んでいない可能性があります。そのような環境で育った私も、子どもの頃は絵描きになることを夢見ていましたが、高校生になった頃に、漠然とした違和感を感じるようになりました。

日本の一般的な感覚を踏まえ、私は芸術と技術を「暇を潰すもの」と「暇を作るもの」に分類しています。日本を代表する作家である菊池寛氏は、芸術を「観念遊戯」と表現していましたが、現代アートと呼ばれるものの多くは、まさにこの「観念遊戯」に当てはまるのではないでしょうか。

日本では、マルシェやフリーマーケットなどのイベントで「作家さん募集」という文言をよく見かけますが、本来、作家とは芸術作品を作る人のことを指します。しかし、実際には、暇つぶしのように見えるカバンやアクセサリーでも、芸術作品として扱われているケースがあるようです。このような状況も、芸術が「暇つぶし」と捉えられている一因と言えるのかもしれません。

最近、イタリア人のインダストリアルデザイナーと話した際、「アート」という言葉の使われ方に違和感を覚えると話していました。彼自身は、自分が制作したものをアートと呼ばれたり、自分がアーティストと呼ばれたりすることに抵抗があるそうです。

歌手の山下達郎氏も、ラジオ番組で「アーティスト」と呼ばれることに抵抗があると発言していました。

私自身、モノづくりは、多くの日本人が言うところの「アート」ではないと考えています。芸術とモノづくりは、行為は似ていても、目的が異なります。私は菊池寛氏と同様に、観念遊戯よりも暮らしを優先したモノづくりを志向しており、自身の作品をアートと位置づけることもありません。

各地で盛んに開催されている芸術祭やマルシェでは、自然農や自然エネルギーといったテーマと結びつけられることも多いように見受けられます。しかし、現実問題として、自然農だけで日本の食料需要を満たすことは困難であり、自然エネルギーだけで日本のエネルギー需要を賄うことも難しいのが現状です。

このような状況が、日本を衰退させる一因になっているのではないかと危惧しています。

今、地方自治体の多くが人口減少を問題にしています。日本全体で出生数が年間70万人ほど、小さな自治体だと、わずか数十人、数百人というところもあります。実際に、モノづくり塾近くの小学校では、今年の卒業生がわずか2名だったという話も耳にしました。

今後、さらに人口が減少することは明白です。そうなったときに、肝心の技術の恩恵は、外国人によってもたらされることになるかもしれません。つまり、今日生まれた子どもたちが20歳、30歳になったとき、仕事がない、あるいはあっても低賃金労働しかないという状況に陥る可能性があります。すでに、日本の若者が海外に出稼ぎに行くケースも増えています。

10年後には、若者の仕事がないという事態も現実味を帯びています。

10人生まれたら10人分の仕事を作らなければなりません。12人分の仕事を作れば、人口が増えるかもしれません。

今、私たちは何をすべきなのでしょうか。大人たちは、将来を見据え、責任ある行動をとる必要があるのではないでしょうか。

モノづくり塾では、「作る・学ぶ」を通して暮らしの技を持つ人を増やし、その結果、仕事や事業を作る人を育てたいという思いで活動しています。

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