個性的であることと個性的であろうとすること

元々みんな違うから、みんなが個性的なのは当たり前です。自然のままなら個性的ということです。自然のままなら多様性があります。

人間はA君とB君を男性と称することができます。A君とB君は違う存在なのに、男性とひと括りにできる。抽象化や類型化という他の動物がやらない脳の活動でしょう。

敢えて個性的であろうとすると個性は薄まります。頭で考えることは後天的で外部からの情報入力によって類型化されたり誰かの真似だったりするから。

お洒落系的な感じの人たち、あるいはそう自称している人たちが、外資のカフェで不味いコーヒーを飲みながらMacBookを開いている様や、似たような服装やメガネを掛けている様や、顎にちょこっと髭を生やすといった様は、類型化してデフォルメされた姿なんだと思います。「ありのままの私」を標榜しながら誰かに似ているというのが見ていて興味深いです。

本来みんなが個性的なのだから、個性的であるというのは実は目立たない。

個性的であろうとするのは目立ちたいという心の発露なのかもしれません。個性というよりは違和感や異物感の演出なのかもしれません。そして同じ方に向かって競っているようにも見えます。

敢えて個性的に、多様性をというのはなんとなく嘘っぽい。

目立たないけれど何やら面白いことをやっているとか、他人と競わずに淡々と自分のやりたいことをやっている。そういう人の個性に気付ける眼を持っていたいと思います。

モノづくり塾では、人を相対評価しないことにしています。誰かと誰かを比べて、良い悪い、優れてる劣っているという考え方はしません。

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