新渡戸稲造の『武士道』の前書きに、『武士道』を書こうと思ったきっかけは、「日本人は宗教なしでどうやって道徳を作ったのか」という外国人の問いに答えるためだという趣旨のことが書かれています。新渡戸は武士道が日本人の道徳形成に大きな影響を与えているという視点で語っており、それはそれで説得力があると思って読みました。
でも、武士道以前にも道徳はあったはずで、武士道だけでは答えは出ないでしょう。
日本人は自然と祖先をカミとする信仰を持っています。個人的には神という言葉を使うのは間違いだったのでは思うこともあります。これは経典や教祖のある宗教とは異なる信仰です。宗教以前の世界では、もしかすると日本人と同じような信仰を持っていたかもしれません。
カミはゴッド=神ではなく、カミ=上です。生物の系統樹の上、家系図の上、それがカミです。そういう意味で、ゴッドを置く宗教の視点から見ると日本人は無宗教であると考えがちですし、ゴッドを信仰しないので、盆暮れ正月とクリスマスが共存できてしまいます。
日本人はカミ=上を信仰したのは自然観察力によって得られたものではないかと思っています。
花が散るというだけでも、桜は散る、梅は溢れる、菊は舞う、椿は落ちる、牡丹は崩れる、雪柳は吹雪く、朝顔は縮む、紫陽花はしがみつく、といったように、自然を観察して描写しています。表現の幅が豊かですね。
個人主義や西洋の価値観に偏った人たちは、まるで自分が単独で湧いてきたようなことを言います。2人の親がいなければ自分は生まれない、その2人の親にもそれぞれ2人の親がいる。そうやって過去を遡ると、子を愛おしく思う人たちがたくさんいたからこその自分だということを直感できると思うんです。この直感が日本人の信仰であり神道だと言えると思います。
犬や猫でも、子を守るために親が盾になるとか、子が自立能力を高めるために危険を顧みずに自分を訓練するとか、様々自然の仕組みが観察をすると見えてきます。
観察の中で規範が見つかる。
ゴッドがこう言ったからこうする、という宗教の下では人間は受動的ですが、積極的に観察して規範を見つける人間は能動的だと言えるでしょう。規範に対する態度がゴッドを信仰する人たちと日本人とでは真逆です。
観察力ってすごく大事だと思うんですよ。
よく観察すると見えてくるものがたくさんある。
宗教の下で道徳や価値観を作った人たちの考え方や精神をそのまま使っては日本人らしくないですよね。現代は非常に速く情報が伝達されるので、海外の価値観を咀嚼して日本に合うように修正するのは難しいと思いますが、ここは譲れない感じがします。
悲しいときも嬉しいときも、困ったときも上手くやれたときも、その理由や状況や経緯を観察すると面白いと思います。