偽物の合理主義

合理という言葉は、本来「理に合う」ことを指す。
だが、今の社会で言われている合理は、ほとんどが「合利」——“利に合う”ことだ。
利に合うとは、欲望に従うこと。つまり、人の都合を神棚に祀って拝む生き方だ。
そこには理がない。ただ、得を積み重ねる快楽があるだけだ。

私がものづくりを始めたころ、便利な加工機械を買っても、あえて使わないことがあった。
ワークを固定し、治具を合わせ、機械を動かして加工を始める。
しかしそれを手でやる場合は、事前の段取りを飛ばして、加工そのものに入っていける。結果的に、手の方が速いこともあった。
角度も、力加減も、木の抵抗も、すべて感覚の中にある。
その感覚は、砥石の上で十年間、刃を滑らせ続けた結果として身についたものだ。
静かで長い時間が必要だった。

刃を研ぐというのは、理に触れる訓練だ。
角度を保ち、砥石の上で前後に滑らせる動きに、迷いがあってはいけない。
迷いがあれば、刃は切れない。

利に従う、つまり損得の階層に身を置く姿は、卑しさの表れだ。
そんなもので社会を動かしてもらっては困る。

法隆寺を建てた大工たちは、図面を持たなかった。
図面がいらなかったのだ。
理が身体に宿っていたから、図面より正確に寸法を刻めた。
彼らの仕事は、千三百年を超えても朽ちていない。
それは、理に従った仕事だったからだ。
いまの「合理」は、図面とマニュアル、高価な機械を手にしても、百年も保たない。
人が理を捨て、利を選んだからだ。

木は嘘をつかない。
刃が正しければ、木も素直に応える。

効率やコスパの言葉が世界を満たしても、理は変わらない。
速さより確かさ。
利は一代、理は千年。

だから私は、これを続けている限り、刃を研ぐことを大事にする。

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