「押し付けられた憲法だ」と言う人がいる。
だが、押し付けが成立するなら、押し頂いた人たちがいるはずだ。
この国の“保守”は、その事実からずっと目を背けてきた。
戦後日本は、GHQに「押し付けられた憲法」でできている。
そう語る政治家や評論家は多い。
だが彼らの口ぶりを聞いていると、まるで被害者のようだ。
まるで、無理やり結婚させられた可哀想な花嫁みたいな顔をしている。
でも、あのとき——戦後の官僚も政治家も——
実際にはかなり積極的に「押し頂いた」ではないか。
ありがたく受け取り、ぴかぴかに磨き上げて、「民主主義国家ニッポン」の看板を掲げた。
その看板の下で、アメリカの顔色を見ながら、70年以上も統治を続けてきたのが自民党だ。
「自主憲法をつくる」と言いながら、アメリカの許可なしには何ひとつ動けない。
「保守」とは名ばかりで、実際には“従米派”。
その代表が高市早苗や櫻井よしこだ。
彼らが守ってきたのは、“日本”ではなく“アメリカに従う日本”という秩序だ。
だから、「押し付け憲法論」は都合がいい。
押し付けられたことにしておけば、自分たちの従順さを誤魔化せる。
しかも「愛国者」を名乗れる。なんと便利な構図だろう。
だが本当の問題は、「押し付け」ではなく「押し頂き」の方にある。
この国は、屈服の記憶を“戦後民主主義”という美談に仕立て上げた。
そして、それを“誇り”と呼ぶようになった。
——笑うしかない。
押し付けた側より、押し頂いた側の方が、よほど熱心だったのだから。
果たして、この負け犬の薄汚れた魂が、浄化されることがあるのだろうか。