国会はプロレスのリング

一 予定調和のリング

蹴られたり、投げられたりすれば痛い。
だから、本人たちは真剣だ。
だが、全体としては予定調和。
真剣にやる三文芝居――それが国会であり、国政選挙である。

GHQ占領期、権威は天皇からGHQに移り、役人組織だけが温存された。
その官僚機構は、占領を終えてもリセットされず、いまも「日米同盟」という名の鎖の下に存在している。
国会の外では、日米合同委員会が静かに日本の行く末を話し合う。
本当の政治は、国会の外で行われている。

日本の最大の問題は、政治家ではなく官僚組織だ。
出世と報酬を得るための搾取の仕組みが張り巡らされ、どんなに勇ましいことを総理大臣が言っても、他の大臣は官僚に絡め取られ、
総理が変われば、すべて元に戻る。
それでも、舞台の幕は毎回上がり、国民は新しい主役の登場に喝采を送る。

構造こそが問題なのに、SNSでは
「石破がダメだ」「高市がいい」と罵り合う。
見るところが違う。
――知性の劣化が、著しい。

かつて「小泉劇場」と揶揄した人々も、実はその劇場の観客席に座り、拍手とブーイングを繰り返していた。
舞台の外にいるつもりで、しっかり演出の一部になっていたのだ。
観客は、舞台を茶化しながらも、次の公演を心待ちにしている。

国会はリング。
だが、観客もまた、そのリングの一部である。


二 幕を降ろす勇気

観客が立ち上がるとは、怒鳴ることでも、暴れることでもない。
ただ、もうその芝居を見ないと決めることだ。
芝居を支えていたのは、舞台の上の役者ではなく、チケットを買い続けた観客の方だったのだから。

官僚が描いた筋書きに沿って、政治家が熱演し、メディアが煽る。
国民はその熱演を「現実」だと思い込み、涙を流したり、怒りを燃やしたりする。
けれど、幕の裏では筋書き通りに進行している。
そこに、即興も、変化もない。

幕を降ろす勇気とは、その舞台から一歩外に出て、自分の足で現実を見ることだ。
誰かの言葉を信じるのではなく、自分の目と手で確かめる。
誰かの思想に乗るのではなく、自分の暮らしを小さく整える。
政治を変えるより先に、自分の世界の構造を変える。
それが、本当の独立のはじまりだ。

戦後八十年。
私たちはずっと、
占領が残した舞台の上で芝居を見続けてきた。
だが、幕はいつでも下ろせる。
観客がそう決めた瞬間に。
政治のリングを降り、手を動かし、汗を流し、自分たちの暮らしを自分たちの力で築くとき、ようやくこの国の「演出」は終わる。

国会はプロレスのリング。
だが、幕を降ろすスイッチは、いつだって観客の手の中にある。


三 手を動かす者たち

幕が下りたあと、静けさの中に残るのは、誰かの演説でも、ニュースの見出しでもない。
机の上の木片、古い工具、そして、動かそうとする手の音だ。

ZIKUUの工房に集まる人たちは、まず何かを作る。
机を作り、椅子を修理し、回路を組む。
それは「生産」でもあり「自治」でもある。
他人の台本の中で生きるのをやめ、自分たちの手で、暮らしの脚本を書き直している。

そこでは、誰も主役ではない。
みんなが同じ舞台に立ち、互いの技を借り、支え合う。
それは「国会」とは対極の現場。
予定調和ではなく、日々の試行錯誤。
そこには、嘘のない痛みと、確かな喜びがある。

政治とは、国家の専売特許ではない。
生活をどう立てるか、仲間とどう支え合うか、その積み重ねの中に、ほんとうの政治がある。
ZIKUUの活動は、その小さな試みだ。
国が変わらなくても、自分たちは変えられる。
幕を降ろしたあとに始まる、もうひとつの舞台。

国会はプロレスのリング。
だが、外には、本当の人生の舞台がある。

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