資源ゴミという欺瞞

限られた資源を有効に使う——
この言葉は一見すると立派だが、実際には“見えるもの”にしか作用しない。

社員が少ない。
設備が足りない。
こういう資源は目に見える。
だから人は、どう使うべきかを考えられる。

しかし同じ言葉をゴミ問題に当てはめた瞬間、ほとんどの人は“止まる”。
資源が「どれくらい」限られているのか、そもそも「何が」資源なのか、
ほぼ誰も答えられない。
見えていないからだ。

見えていないものは調べて構造をつかまないと扱えない。
だが、多くの人は調べないまま、“気分としての善行”を語り出す。
限られた資源?
エコ?
それらは言葉であって、構造ではない。

気分で語られた概念は問題を解決しない。
むしろ自己満足を生む。
そして自己満足は、エゴとほぼ同義になる。
“今だけ、自分だけ”。
構造を理解しない人間の判断アルゴリズムは、自然にそこへ流れる。

ゴミは普通、資源にならない。
燃やす、刻む、溶かす。
その全工程に膨大なエネルギーが必要だ。
“資源ごみ”という言葉は、このエネルギー収支の構造を隠蔽し、人の良心だけを利用する装置になっている。

資源量を測らず、エネルギー費を計算せず、ただ“良いことをしている気分”だけで判断する。
それは、社会という共同体に対して見えないところから刃物を突き立てる行為と同じだ。

自分の子どもが生きる未来に、自分の“認識の怠慢”がダメージを与えている。
それに気づかず、むしろ誇らしげに語る——
ここに、この国の深い問題が詰まっている。


ちなみに、この背後にはグローバルガバナンス化という構造がある。
世界同時に起こる、これらの現象の裏側だ。
論文を書いているので、一度お読みいただきたい。

→ 移民・難民政策のグローバル・ガバナンス化 ─ Global Compact for Safe, Orderly and Regular Migration(GCM)と大規模財団資金の構図から読み解く

コメントする