恥と責任と文化

日本の社会を見ていて、ずっと感じている違和感がある。
それは、生活感覚や人の温度を感じない人たちが社会を動かしていることへの違和感だ。

この感覚は、かなり昔からあった。
はっきりとした形で意識したのは、企業がホールディングス会社を作り始めた頃だ。

セブンイレブンのような企業をはじめ、多くの企業が持株会社を作り、その下に事業会社をぶら下げる形になっていった。

経営の合理化として説明されることが多い。
しかしそれを見たとき、私は「これはまずい」と思った。

なぜなら、その構造は、机上で数字だけを見る人たちが企業を管理する仕組みだからだ。

現場の仕事というものは、数字だけでは成り立たない。

そこには

  • 人の癖
  • 技術の蓄積
  • 暗黙のルール
  • 人間関係

といったものがある。

それを理解していない人間が、数字だけを見て組織を設計すると、表面は整うが中身が壊れる。

実際、そういう場面を何度も見てきた。

顧客として関わった企業でもそうだった。
ある大企業は、ある時期、プログラマーがインド人ばかりになった。

コストの論理から見れば合理的なのだろう。
しかし、機械系の製品の開発というのは単純なプログラム作業ではない。
制御や安全系のソフトウェアは、製造現場の理解と深く結びついている。

現場の文脈を知らない人間が大量に入ると、組織の知恵は途切れる。
後になって危険だと気づいたのか、日本人技術者の中途採用に舵を切ったようだった。

問題はインド人ということではない。
机上のコスト論で人を配置する経営の姿勢だ。

そして、その背後にはコンサル会社の存在がある。

コンサルタントは、企業を

  • 数字
  • プロセス
  • KPI
  • ベンチマーク

といったモデルで分析する。

しかし、企業というものは、本来もっと泥臭いものだ。

人間の仕事は、抽象的なモデルではなく、生活の現場で動いている。

それを理解しないまま組織を作り替えると、企業は壊れる。

しかし、本当の問題はコンサルではない。

コンサルに頼る経営者だ。

自分で判断できない経営者が、外部の権威を呼び込み、会社を任せてしまう。

そういう経営者は、現場を知らない。
責任を引き受ける覚悟もない。

私はそれを見ていて、こう思うようになった。

この問題は、人間の劣化なのではないか。

しかし、その劣化は個人の問題ではない。
もっと大きな文明の問題だと思う。

教育の考え方。
文明の定義。
社会の設計思想。

そういうものの結果として、人間が変わってしまったのではないか。


同じような構造は、移民問題にも現れている。

日本では、外国人労働者は「移民ではなく一時的な労働力の補完」と説明される。

政策を作る人たちは、本当にそう思っているのかもしれない。

しかし実際には、外国人労働者は企業のシステムに組み込まれていく。
企業の収益構造の中の重要な位置になっていく。

企業はコストを圧縮したい、消費者は安く買いたい。
そこから導き出される構造の中に外国人労働者が組み入れられる。

外国人労働者にも、

生活がある。
家族もできる。
帰国すれば日本にいた期間は人生の空白になるかもしれない。

そうなると、もう「一時的な補完」では済まない。

机上で数字だけを見る人には、その現実が見えない。

移民問題は、消費しかしない日本人の側にも問題の種がある。


相続の問題も同じだ。

昔、日本では、田んぼを相続で分割することを「たわけ者」と呼んだ。

「たわけ者」は「田を分ける者」という意味だ。

田んぼは単なる財産ではない。
生産設備だ。

それを細かく分けてしまえば、生産能力が壊れる。

しかし現代の制度では、相続は平等であるべきだとされる。

兄弟で同じように分けるのが公平だという考え方だ。

だが、それでは生産設備を継承できない。

相続税も同じ問題を持っている。

税金を払うために土地や事業を売らなければならない。
結果として、社会の生産基盤が解体されていく。

私自身は、この問題には若い頃から気づいていた。

だから結婚しても親のそばに住み、兄弟の助けを頼らず、極力自分が親の面倒をみると決めていた。

役割を引き受けた者が家の財産を受け継ぐ。
それが当然だと思っている。

親の面倒も見ないのに金だけよこせというのは認めない。

これは法律の話ではなく、文化の話だ。

私にとって、それが日本の本来の文化だ。


日本の文化の中心にあるのは、「恥」だと思う。

西洋では栄誉が重視される。彼らが好んで使う「誇りに思う」だ。
栄誉は外に向かう。

しかし恥は内に向かう。

「そんなことをして恥ずかしくないのか?」

この一言が、日本の文化の中心にあった。

恥は、人間の内側を整える。

外から監視されなくても、自分で自分を律する。

社会がうまく回るのは、この文化があるからだ。

しかし今は、この文化が弱くなっている。

恥が効かなくなると、社会はどうなるか。

  • 法律が増える
  • 管理が増える
  • KPIが増える
  • コンサルが増える

つまり、文化の代わりに制度と管理が入る。

私は、「恥」が通じない人間とは口をきく気になれない。

それは単なる感情ではない。

文化が違うからだ。


私は、日本文化を回復する必要があると思っている。

しかしそれは制度を戻すことではない。
だから政治運動ではできない。

文化は法律で作れるものではなく、生活の中で育つ。

ZIKUUという構想はその一翼を担う。

ZIKUUは文明のバックアップを標榜している。

文明はシステムだけでは保存できない。

文明には

  • 土地
  • 技能
  • 文化
  • 生活

が必要だからだ。

そのために、土地を手に入れ、建屋を建て、塾生に指導をする。

ZIKUUは、文明の記憶を保存するものだ。

そしてそこから落ちる種がある。

それが ZIKUU Seed だ。

Seedは種だ。

Seedは小さい。
しかしその中には文明の設計図が入っている。
知識層、記憶層、神経層、思考層が入った状態で送り出される小さな箱だ。

Seedが落ちる場所は苗床だ。

Seedはそこで芽を出す。

そこには

  • 小屋
  • 工房
  • 土地
  • 共同体
  • 暮らし

があり、それらと結びつく。

新しい文明の苗床だ。

社会を制度で変えることは難しい。
しかし小さな文明を育てることはできる。

Seedが根付けば、森になる。

私は、その種を蒔く。

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