度々報道される一人あたりのGDPランキング。
日本はかなり順位が低い。
対して、生産年齢人口一人あたりのGDPランキングとなると、マシに見える。
GDPは以下の2つに分解できる。
- 生産年齢人口一人あたりの生産性
- 総人口に占める生産年齢人口の比率
1と2の掛け算が、一人あたりのGDPだ。
日本は「生産性が高い」のか
実質GDP成長率を生産年齢人口1人あたりで見ると、日本は年平均約1.5%でG7首位だった。米国は約1.3%、ドイツは約1.4%、英国・フランス・カナダは約1.1%。さらに、1981年以降を通しても日本がG7で最も高かったという研究がある。
その中で、
日本の「失われた30年」は、働ける人口が急減したことを無視すると、実態以上に悪く見える
という指摘もある。
一方、水準で見ると、2018年の実質GDP/生産年齢人口は、日本がOECDで17位、G7で5位という分析がある。
したがって正確には、
日本は、生産年齢人口1人あたりGDPの水準が非常に高い国ではない。
しかし、生産年齢人口が減るなかで、その1人あたりGDPを伸ばしてきた実績はかなり良い。
と言える。
生産年齢人口一人あたりのGDPは次の2つに分解できる。
- 就業者一人あたりの生産性
- 生産年齢人口に対する就業者の比率
これらを掛けたのが、生産年齢人口一人あたりのGDPだ。
日本は女性や高齢者の就業が増え、失業率も低く、就業者比率をかなり上げてきた。そのため、生産年齢人口1人あたりGDPが伸びた。しかしOECDは、日本の就業者1人あたりの労働生産性自体は、OECD上位国よりかなり低いと分析している。増加した就業率が、人口減少による悪影響を相殺する方向に働いたという構造だ。
乱暴に言えば、
一人ひとりが猛烈に高付加価値になったというより、働ける人をかなり労働市場へ投入して、社会全体の生産を維持した。
日本の本当の姿
日本経済は、一般に言われるほど「何も成長していない」わけではない。
総GDPが伸びないのは、
- 生産年齢人口が減少
- 総人口も減少
- 高齢人口が増加
- 為替換算したドル建てGDPが円安で低下
という要因が重なっている。
特に名目ドル建て一人あたりGDPランキングは、国内の実質的な生産能力だけでなく、円ドル相場で大きく動くから、円安になれば、日本国内で同じ量を生産していても順位は落ちる。
ただし、楽観材料ではない
生産年齢人口1人あたりGDPが健闘していることは、
日本経済の現場は、人口減少の割にはよく持ちこたえている
ことを意味する。
同時に、
少数の働く人が、より多くの高齢者と社会インフラを支えている
ことも意味する。
GDP/生産年齢人口が上がっても、社会保障費や税・保険料の負担が増えれば、働く人の可処分所得や生活満足度は上がらない。GDPは高齢者医療や介護サービスも生産として計上するので、GDPが維持されても、自由に使える豊かさが増えているとは限らない。
OECDは、政策変更がなければ高齢化によってOECD全体の一人あたりGDP成長率が鈍化し、日本では就業人口の減少が特に深刻になるとしている。
私の見立て
この数字から見えるのは、
日本は生産力を失ったというより、生産を担う人口を失っている。
そして現場は、その減少を、
- 女性就業
- 高齢者就業
- 省人化
- 自動化
- 長時間あるいは高密度な労働
- 既存設備・社会資本の利用
で補ってきた。
だから、「日本人は生産性が低いから貧しくなった」という説明は粗すぎる。一方で、「生産年齢人口1人あたりでは優秀だから問題ない」も間違い。
実態に近いのは、
日本の生産現場は人口構造の悪化に対して相当に健闘した。
しかし、その健闘を社会保障負担と人口減少が食い潰している。
という構図だと思う。
さらに見るなら、GDPを次の四段階で分解すると、日本の弱点がかなり明確になる。
総人口→生産年齢人口→就業者→総労働時間→GDP
日本は「生産年齢人口→就業者」の転換率は高い。弱いのは、主に1時間あたりの付加価値と、そこから家計へ回る実質賃金・可処分所得だ。そこまで見ると、「日本は働いていない」のではなく、よく働いて生産を維持しているが、利益の配分と社会的負担に問題があるという姿が見えてくる。
GDPが上がっても豊かにならない例
GDPは、次のような支出も生産として数える。
- 交通事故後の修理や治療
- 公害の除去
- 犯罪対策や警備
- 病気の治療
- 災害復旧
- 離婚に伴う弁護士費用
- 長時間通勤に伴う交通費
- 誇大な広告や営業活動
- 複雑化した制度を処理する事務サービス
どれも実際に労働とサービスが発生しているので、GDPに入ること自体は会計上おかしくない。
問題は、それを見て、
GDPが増えたから社会が良くなった
と解釈すること。
例えば、公害を出す工場が製品を作り、その後に公害を除去すると、
- 製品の生産
- 公害除去サービス
の両方がGDPに入る。
最初から公害を出さず、除去作業も不要な工場より、GDPが大きくなる可能性がある。だが明らかに前者が豊かとは限らない。
GDPが測っていないもの
GDPは、次の変化を十分には表さない。
- 家庭内の無償労働
- 自然環境の劣化
- 資源の枯渇
- 社会資本の老朽化
- 家計の自由時間
- 所得分配
- 地域共同体の機能
- 技能や修理能力の喪失
- 治安や安心
- 将来世代へ残す資産
- 製品の寿命や修理可能性
GDPは「フロー」だから、その年にどれだけ生産したかを測る。一方、住宅、森林、道路、設備、技能、社会的信頼などは「ストック」。
極端に言えば、
森を伐採して木材を売るとGDPは増える。
森林資産が失われたことは、GDPだけでは十分に見えない。
という構造だ。
日本には、
- 家庭内で行われる介護
- 自家修理
- 地域の助け合い
- 長く物を使う文化
- 企業内で抱える間接業務
- 非市場的な公共・共同体活動
が比較的多く残ってきた可能性がある。
逆に米国のように、
- 家事
- 育児
- 介護
- 法務
- 警備
- 医療
- 教育
- 金融
- 企業内業務
まで広く市場サービス化され、価格も高い社会は、同じ実物的便益でもGDPが大きく出やすい。
医療費が2倍だから健康が2倍とは限らない。大学授業料が3倍だから教育成果が3倍とも限らない。価格が高いサービス社会は、名目GDPも大きくなりやすい。
だから国際比較では、GDPだけでなく、
- 実質家計可処分所得
- 中央値所得
- 購買力平価
- 労働時間
- 健康寿命
- 住宅費
- 教育費、医療費
- 家計純資産
- インフラと自然資産
- 無償労働を含む時間利用
を見る必要がある。
家計の可処分所得、消費、貯蓄、教育・医療サービスなどを見る必要がある。
要するにGDPは、用途の狭い生産会計を、豊かさの総合得点として使うことが間違いだ。
GDPが答えるのは、
国内で今年、価格評価可能な財・サービスをどれだけ新たに生産したか
だ。
答えていないのは、
その生産は必要だったか。
暮らしは良くなったか。
資産は増えたか。
社会は持続可能になったか。
だ。
豊かさの実感
いくつか見方がある。
主観的ウェルビーイング
たとえば世界幸福度報告では、
自分にとって最悪の人生を0、最良の人生を10とすると、今はどこか
と本人に尋ねる。これは「うれしい気分か」ではなく、人生全体への評価だ。OECDも主観的ウェルビーイングを、人生に対する評価と、日々経験する肯定的・否定的感情の両方として扱っている。
この方法の良いところは、豊かさの定義を専門家が勝手に決めないこと。
悪いところは、人間が環境に適応すること。
貧困や抑圧の中でも、
「まあ、こんなものだ」
と思えば満足度は上がる。反対に、非常に恵まれていても比較対象が上なら不満になる。
つまり、実感は本物だが、それだけでは生活条件の良し悪しを判断できない。
センの「ケイパビリティ」
個人的に、豊かさを考えるうえで最も本質に近いと感じるのは、アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチだ。
重要なのは、持っている金や物ではなく、
その人が、実際に何をでき、どんな生き方を選べるか
だ。
同じ100万円を持っていても、
- 健康な人
- 重い障害がある人
- 公共交通のある地域に住む人
- 車がなければ暮らせない地域に住む人
- 家族の介護を抱える人
では、実際に可能な生活が違う。
だから、資源の量と実現可能な生き方の広さは同じではない、となる。
UNDPの人間開発指数も、この考えを背景として、所得だけでなく健康と教育を含め、人間とその能力を発展の基準にしている。
これはZIKUU的に言えば、単に工具を所有していることではなく、
作りたいと思ったものを、実際に作れること
が豊かさだ、という話に近い。
工具、場所、時間、技能、仲間、材料へのアクセスがそろって、初めて「作れる」というケイパビリティになる。
心理的な裏付けとしての自己決定理論
実感としての豊かさを説明するモデルとして、自己決定理論がある。
人間には大きく三つの心理的欲求があると考える。
- 自律性――自分で選んでいる感覚
- 有能感――自分にはできる、上達しているという感覚
- 関係性――他者とつながり、必要とされている感覚
この三つが満たされると、動機づけや心理的充足が高まりやすいというモデルだ。
これで考えると、金があっても、
- 上司や制度に完全に管理される
- 自分で何も決められない
- 技能を使う機会がない
- 誰とも深く関われない
生活は、豊かに感じにくい。
反対に、収入がそれほど多くなくても、
- 自分で仕事を選べる
- 手を動かして上達できる
- 仲間に必要とされる
- 自分の成果が目に見える
と、豊かさを感じやすい。
ZIKUUで人が感じるものは、たぶんこの三つがかなり揃っている。
私ならこうモデル化する
豊かさは、単純な足し算というより、
豊かさの実感=基礎条件×自由度×関係性×有能感×意味
と考える。
たとえば、
- 所得は十分だが、自由がゼロ
- 自由はあるが、健康がゼロ
- 技能はあるが、使う場所がない
- 物はあるが、誰とも関われない
などの場合、一つの項目が極端に低いだけで、豊かさ全体が大きく下がる。
さらに、 持続可能な豊かさ=現在の豊かさ−将来資本の取り崩し
と見る。
今の快適さのために、
- 貯蓄
- 健康
- 自然
- インフラ
- 技能
- 信頼
- 次世代の可能性
を食いつぶしているなら、それは豊かさではなく、前借りだ。
実感を裏付けるには
一つの数値ではなく、三種類を並べるのがよい。
生活条件
所得、住居、健康、時間、安全、環境。
実現可能性
何を選べるか、何を作れるか、移動できるか、学べるか、断れるか。
本人の実感
人生満足度、日々の感情、意味、孤独感、自律感、有能感。
この三つが一致していると、かなり確かな「豊かさ」だ。
私は豊かさを、
自分の時間と能力を、自分が価値を感じることに使える状態
と置くと、かなり多くのモデルが一つにつながると思う。
金や物はそのための手段。健康、技能、場所、共同体も手段であり、一部はそれ自体が目的でもある。
GDPが測るのは、その状態を作るために市場で動いた金の一部だけだ。豊かさの核心は、むしろ可能性と裁量と関係性の側にある。
最後に
自分は何者なのか、自分は何のために生きているのか。
そういうことは考えなくていい。
それは状況によって変わるからだ。
ただ、生活条件、実現可能性、本人の実感という裏付けは、一度、振り返ってみて、自分にとっての豊かさとは何かを考える機会があっても良いと感じる。
ちなみに私は、
自分の時間と能力を、自分が価値を感じることに使える状態
だから、豊かなのかもしれない。
制約もたくさんあるから、豊かではないかもしれないが、制約は考えるきっかけになることもあるので、悪いとは言い切れない。
一般的に、能力は、
何ができるか
だと思っている人が多いと思うが、大切なのは、その先にある。
何をしたいと思えるか
それを実際にやる気になるか
ここまで含めて能力だと思う。
やりたいと思ったことは、すぐにやりましょう。
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