終わらないことを前提にする – ZIKUUの姿勢

私が常々意識しているのは、何を教えるか、何を作るかという方法論よりも、世界に対してどういう姿勢でいるかという問いである。

わかった気になってはいけない

何かを話すと、話し終わるか終わらないかのタイミングで、「ああ、それね」と返す人がいるが、そういう人でわかってる人に会ったことは、これまでに一度もなかった。

人間がどれだけ学んでも、世界のすべてを知ることはない。

知識や経験が増えることと、世界そのものを理解したことは違う。

むしろ、学ぶことで、それまで見えていなかったものが見えるようになる。

一つ知れば、その向こうに新しい「知らない」が現れる。

だからZIKUUでは、知識を増やすことと同じくらい、自分が知らないという事実を見失わないことを大切にする。

先入観や思い込みを完全になくすことはできない。

だからこそ、自分の理解や分類を世界そのものだと思わない。

「わかった気になるな」

これは他人に向けた言葉であると同時に、自分自身に向けた言葉でもある。


世界の形を先に決めない

これはAIに対する姿勢にも現れる。

世界をあらかじめ人間が分類し、

世界はこうなっている。
この構造に従って考えなさい。

とAIに与える。

最近流行りのオントロジー (Ontology)がだいたいこれだ。
そんなことばっかりやっている。

対して、ZIKUUは、できるだけ世界で起きたことを残す。

出来事、会話、文章、研究、制作、失敗、観測、コード、変化。

そしてAIにも問う。

世界では、こんなことが起きている。
どうなっていると思う?

人間もAIも世界の観察者である。

人間の見方も、AIの見方も、現時点での仮説にすぎない。

OntologyやKnowledge Graphも使える。しかし、それを世界そのものとは考えない。

必要なときに世界を見るための、一時的なレンズとして使えばいい。

ZIKUUが求めているのは、完成した世界モデルではない。

世界を見続け、問い続けられる状態である。


学ぶのに目的はいらない

何歳からでも学べる。

何かの役に立つから学ぶ必要もない。

資格を取るためでも、仕事のためでも、成功するためでもなくていい。

面白いと思ったときが、学ぶときである。

「これは何だろう」

と思ったら、調べる。

触ってみる。

作ってみる。

失敗する。

少し分かる。

すると、それまで見えなかったものが見えてくる。

そしてまた、

「これは何だろう」

が生まれる。

学習とは、知らないものを消していく作業だけではない。

新しい「知らない」を発見できるようになることでもある。

だから学びには終点がない。


完成しても終わらない

何かを作れば、完成することはある。

技能を習得することもある。

一つの実験が成功することもある。

しかし、それは終点ではない。

完成した場所に立つことで、それまで見えなかった次の景色が見える。

だからZIKUUでは、

完成 → 終了

ではなく、

完成 → 新しい景色 → 新しい問い

となる。

塾生が長い時間をかけて何かを完成させる。

「できた!」

と喜んでいる。

近づいて、

「次は何するの?」

これは「もっと頑張れ」という意味ではない。

次の成果を要求しているわけでもない。

世界はまだ続いているよ。

というだけである。

次に何をするかは本人が決める。

何もしなくてもいい。

別のことを始めてもいい。


成功を人生のゴールにしない

目標を設定すれば、その目標について成功と失敗を判断することはできる。

工作にも、実験にも、研究にも、個々の成功や失敗はある。

しかし人生そのものを「成功した」「失敗した」と評価する必要はない。

成功には終了条件が必要だからだ。

私は、人生全体にその終了条件を置かない。

生きている間は、

まだ途中にいる。

それだけでいい。


自給自足も自立も終わらない

すべての知識を一人で持つことができないのと同じように、すべてのものを一人で作ることもできない。

完全な自給自足も、完全な自立も現実には存在しない。

だから自給自足とは、依存をゼロにすることではない。

自分たちで理解し、作り、直し、維持できる領域を少しずつ広げていく営みである。

自立も同じである。

何に依存しているのかを知り、自分で選択できる領域を増やしていく。

完全な状態へ到達することが目的なのではない。

向かい続けることそのものに意味がある。


だから継承する

一人の人間の時間には限界がある。

世界をすべて知る前に人生は終わる。

作りたいものをすべて作ることもできない。

試したいことをすべて試すこともできない。

だから継承が必要になる。

しかしZIKUUにおける継承は、完成した知識体系を次世代へ押し付けることではない。

ここまで見た。
ここまで試した。
こう考えた。
こう失敗した。
ここはまだ分からない。

続きを始められる状態で渡す。

原本、記録、道具、技能、コード、失敗、Context、そして問い。

次の人は続きをやってもいい。

別の方向へ行ってもいい。

前の世代の考えが間違っていると思えば、壊してしまってもいい。

継承するのは答えではない。

未完であり続ける営みである。


終わらない

すべてを知ることはできない。

だから、いつまでも学べる。

完全に自給自足することはできない。

だから、いつまでも作り続けられる。

完全に自立することはできない。

だから、自分たちのできることを増やし続けられる。

一人では終わらない。

だから、次の人へ渡す。

完成しないことは失敗ではない。

完成しないことを前提にすれば、営みは世代を越えて続いていく。

ZIKUUは、人間を完成させる場所ではない。

世界についての完成した答えを与える場所でもない。

世界を見て、面白いと思ったものに触れ、作り、考え、問い、そして続きを残す場所である。

「わかった気になるな」

「終わらないよ」

そして何かができたら、隣に立って。

「次は何するの?」

私は、好んで「一応の完成」という言葉を使う。

ギターができた。
プログラムが書けた。
ガレージを建てた。

すべてが一応の完成。
その瞬間、というかそのだいぶ前に、次にやるべきこと、次にやりたいことが見えるからだ。

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