時期は思い出せないが、平等という言葉を見た時に「嘘くさい」と思った。
巷では結果の平等は良くないけど、機会の平等は良い、みたいな言説があるけれど、本当にそう思う?
それ、自分で考えて言ってる?
個人差や家庭環境の違いがあるのに、機会だけ均しく与えられてもね。
平等は良いことだとして、身分や性別や家柄などによる外的な制約を減らして、形式的に「誰でも好きなことを選べる」状態へ近づける。すると結果の差を説明するものとして、
「本人がどれだけやる気を出したか」
が前面に出てくる。
平等化が進むほど、
「環境のせいでできなかった」
とは言えなくなり、
「同じ機会があったのに、なぜあなたはやらなかったの?」
という圧力が強くなる。
そうなると「自由」は結構怖い。
選べる以上、選ばなかった責任まで本人に返ってくるからだ。
不平等な社会では「お前にはできない」と言われる。
平等な社会では「お前にもできたのに、なぜやらなかった」と言われる。
どちらもしんどい。
行為の結果
A「やったら評価された。給料も上がった。次の機会も来た」
B「やっても給料は変わらない。仕事だけ増えた」
なら、Bのやる気が落ちるのは当然だ。
これを後から見て、
「Aは意欲が高い。Bはやる気がない」
と分類したら、因果が逆転してしまう。
さらに厄介なのは、最初は小さな差でも累積すること。
成果が返ってくる人は「やれば変わる」と学習して、さらに動く。
返ってこない人は「やっても変わらない」と学習して、動かなくなる。
そう考えると「やる気格差」という言葉は、かなり危うい。やる気を個人の性質として見るか、環境との相互作用として見るかで意味がまったく変わる。
努力は報われない
努力は必ずしも報われない。
これは誰もが知っていると思うけれど、はっきり自覚はしていなくても、薄々はそう思っているはずだ。
努力というのは、機会が訪れたときのための準備のこと。
実際は、その準備と機会が重なった時に成果が出るものだ。
機会を運と言い換えてもいい。
運が悪ければ、努力は報われない、くらいに考えておいた方が気持ちが軽くなるのではないかと思う。
私は、努力を過小評価するつもりはまったくないが、「努力したから成功した」は嘘だと思っている。
腐らずに生きるにはどうするか
平等という概念は美しいと思うけれど、これは永遠に実現しない夢のようなものだ。
よくそういうものを全面に出して活動する人がいるけれど、永遠にゴールにたどり着かないから、永遠に走り続けられるビジネスモデルになっていることがある。
平等はない。
努力は報われない。
この2つを前提に置いて考えてみよう。
私が、常々言っていることがある。
競争相手は昨日の自分
「世の中を平等にすれば幸せになれる」だと、自分では動かせない巨大な条件に人生を預けることになる。現実には、能力も生まれた場所も家庭も運も身体も、かなり不均等だし、それを個人が変えることはできない。
だから、
「不公平はある。それでも、自分の人生をどう組み立てるか」
を身につける。
毎日、できることを一つ増やす、新しいことを知る。人との関係を作る。必要なものを少し自分自身で供給できるようにする。失敗したら別のやり方を試す。
他人の成功を自分の尺度にする必要はない。
職業選択の自由は行使されない
私は、割と気軽に「そんなに今の仕事が嫌なら辞めちゃえば?」くらいのことを言う。
実際は準備が必要だから、今日明日にもその仕事を辞められるわけではないが。
今の肩書や仕事は、自分そのものではない。
そう考えられるか。
今の肩書や仕事がなくなったら、また別のことをやればいい。
そう思えるか。
自由は「与えられた選択肢の中から選ぶこと」ではなくて、今の場所から離れてもなんとかするという姿勢と能力のことだと考える。
あなたは選択の自由を行使する準備をしているか?
自由と平等に押しつぶされる
自由は、行使すると責任と損失可能性が付いてくる。
転職できる自由があっても、収入が落ちるかもしれない。
地方へ行く自由があっても、自分で生活を組み立てなければならない。
関係から離れる自由があれば、その関係が供給していた助けも失う。
平等は、実現しても比較から解放されるわけではない。
むしろ同じルールに置かれるほど、能力、努力、運、環境による結果の差が露出することもある。
だから、
「自由なのに自由になれない」
「平等なのに自分だけ報われない」
という苦しさが生まれて、効力感を得られない。
「昨日の自分が競争相手」
とするだけで、だいぶ気持ちが軽くならないか?
さらにもう一つ
私は、能力と存在ということをよく考える。
人は有能でなければ存在価値がないのか?
あなたにとって、親や子、友人は有能だから存在価値があるわけではないだろう。
存在そのものに価値があるはずだ。
だから、能力と存在価値を結びつける必要はない。
ここまで、
努力すれば手に入るわけでもない。
自由なら幸せとも限らない。
平等になれば解決するわけでもない。
有能なら満たされるとも限らない。
ということを書いてきたが、もう一つ追加したい。
役に立つ必要すらない。
繰り返しになるが、私は、努力、自由、平等、有能ということを否定しているのではない。
疲れたら休んで、元気なときは、昨日の自分と競ってみる。
他人と比べる必要はない。
他人と対立する必要もない。
これだけで効力感が得られると思うが、どうか?
私は、「お、昨日より上手くなったねー」という人が自分の周りにいて、お互いにそれを讃えられれば、すごく優しい環境になるのではないかと思っている。
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