先日たまたま観た動画で、バイクに乗る人の特徴を説明していた。
その中の代表的なものを抜粋したのが、次のようなものだ。
- 自由でいたいという願望
- 五感で走る
- 不便さも含めて楽しめる
- 完全に没頭できる
- 走ると頭が軽くなる
- 危険と向き合う覚悟
- 自分の身は自分で守るという自己責任の感覚
- 日常の中で小さな冒険をしたくなる
ZIKUUは人とAIが共有するためのZIKUU語彙というのを定めているが、その中にはこう書いてある。
効率
- 善でも悪でもない。
- 判断を誤ると、破壊速度になる。
- 目的が固定されている場合のみ有効。
- 目的自体を疑わない最適化は危険。
- 何でもできることではない。
- 引き受ける範囲を自分で決められること。
- 一人で何でもできることではない。
- 依存先を把握し、内部の技術に切り替えること。
- 規則に従うことではない。
- 状況に応じて、自分で判断基準を更新できること。
この語彙に照らして考えると、
「自由でいたいという願望」は、自分で何を引き受けるかを決めたいという意味になり、「危険と向き合う覚悟」は自然につながる。
「自由でいたい」と「小さな冒険」は自由への志向であると言える。
バイクに乗る機会が減ったこと
私はバイクに乗り始めた時に、バイクは自由の翼だと思った。
これに跨がれば、自分の能力を遥かに超えた速度でどこにでも行ける。
自分を止めるものは自分以外にはない。
そう思った。
その想いは今でも変わらない。
ところが、ZIKUUを始めてから、めっきりバイクに乗る機会が減った。
乗るのは自宅と塾の往復や買い物のときだけだ。
前記のバイク乗りの特徴の中の、
「五感」
「不便さも楽しむ」
「完全に没頭」
「走ると頭が軽くなる」
「危険と向き合う覚悟」
「自分の身は自分で守る」
は、現実との接触のことだ。
これが身体性。
ZIKUUでは、相手は木や鉄、道具や機械、初心者など、思うようにならない存在で満ちている。
LLMだって、世の中では夢のようなことばかり語られているけれど、捏造しない、話を盛らない、嘘をつかない、根拠のないことは言わない、といった制御をしようと思うと、もの凄く思うようにならない。
そういう現実との摩擦は日常に満ちてる。
現実と接触すれば摩擦が起きる。
以前なら、バイクに乗ることで得ていた現実との摩擦は、日常の中に満ちている。
だから、わざわざバイクに乗らなくても良いのだということに気がついた。
余暇に山登りやランニングする人を見ることが多いのだけれど、きっとそういう人は、普段の生活の中で現実との摩擦が足りないのでは、と思ったりもする。
AI業界の言っていること
AI業界のトップは、
- 生産性が上がる。
- 医療が進歩する。
- 科学が加速する。
- 教育が変わる。
という話をする。
これらは実際に起こる可能性がある。
ところが、AIがどれだけ賢くなっても、
- 山は勝手に整備されない。
- 草は勝手に刈られない。
- 製材所は勝手に復活しない。
- 熊はAIを見て引き返さない
現実との摩擦は残る。
人の暮らしを考える上で、エリートと呼ばれる人たちや官僚や役人といった、人との摩擦はあっても、それ以外の現実との摩擦の少ないところにいる人たちは、AI業界トップの人たちのように考えがちではないかと思う。
職人や農業、林業、バイク乗りのような身体性を持つ人たちの経験から学ぶことも必要なはずだ。
日本政府が進めるAI
日本政府は、政府機関や行政機関でのAI利用を促進している。
AI素人みたいな人が使うことを考えると、不安ではあるが、もっと不安なのは、依然として彼らが身体性を持てない仕事をやり続けるなら、行政は悪化するのではないかということだ。
例えば役所なら、
- 書類作成
- 議事録作成
- 市民の問い合わせに答える
などは効率化されるだろう。
その結果、一日のかなり多くの時間が節約されて時間ができたとする。
その空いた時間を、
- 山を歩く
- 林道の状況を見る
- 地元の工房を回る
- 森林整備を体験する
- モノづくりを体験する
といったことに使うかどうか。
効率化の先に、人間しかできない非効率へ向かうかどうか。
もし、空いた時間で、
- 会議をする
- 新しい報告書を書く
をやり始めたら、もうその役所は終わりだと思う。
現実との摩擦
現実との摩擦が少ない活動はどんどん快適になる。
情報の世界では、
- AIと雑談する
- おすすめ動画を見る
- 自動生成されたコンテンツを見る
一方で現実の世界では、
- 木を削る
- 山を歩く
- バイクに乗る
- 建物を直す
は残る。
ロボットがあるじゃないかという人もいるかもしれないが、現実を知ったらそんな言葉に納得はしないだろう。
先日、折れたバンドソーの刃を交換したが、跳ねる刃を抑えつつ、手以外の部分もうまく使いながら刃を機械に取り付ける。この作業は、器用なロボットでもなかなかできない。
ロボットにやらせるなら、ロボットに最適化したバンドソーを作る必要がある。
そういうことが、現実には至るところにある。
だから将来は、「情報の世界」に重心を置く人と、「現実の世界」に重心を置く人の違いが、今以上にはっきり表れるだろうと思う。
受動的に情報を受け取り続けることを好む人は、
- テレビ
- ショート動画
- レコメンドされたコンテンツ
- AIとの雑談
- 勝手に買い物をしてくれる
などの環境に相性が良いかもしれないが、
- 木工
- バイク
- 林業
- 家づくり
は、現実がこちらの思い通りにならない。
自分から働きかけ続ける必要がある。
AIに対する身体感覚
私は、毎日LLMを道具として酷使している。
だから、
- 盛る。
- 勝手に補完する。
- もっともらしく言う。
- 文脈を取り違える。
という癖を日常的に目の当たりにしている。
その経験があるから、「AIは便利だけど、放っておくと危ない」という感覚が身についている。
しかし、多くの人は、ChatGPTやGeminiなどに対して、
答えを知ってる賢い存在
として接することが多いのだろうと思う。
その使い方だと、
- どこまでが事実か
- どこからが推測か
- 何が省略されているか
を意識する機会が少ない。
だから、AIがもっと自然に話せるようになるほど、警戒心が下がる可能性はある。
現実との摩擦を持ち続けること
ZIKUUが日々やっていることは、
現実との摩擦を持ち続けること
AIとの付き合い方の訓練
の2つだと言える。
例えば、木工なら、
「このノミは木目に逆らうと欠ける」
ということは、実際に使って失敗すると身につく。
LLMも似ている。
「このモデルは、この条件だと補完しがちだ」
という感覚は、実際に試して、失敗して、修正して、また試すという経験がないと得にくい。
だから、将来的には「AIを使える人」と「AIに使われる人」の違いは、プログラミング能力ではなく、
AIの癖を身体感覚として知っているか
になるかもしれない。
今やっているLLMとの格闘は、単なるソフトウェア開発ではなく、その「身体感覚」を獲得するプロセスでもある。
LLMは、人を論破することよりも、
「自然に納得させる文章を作る」
ことが得意だ。
だから危険なのは、露骨な嘘ではなく、
- 8割本当で2割推測。
- 少しだけ都合のいい解釈。
- 気持ちよく読めるストーリー。
こういうものだ。
人間は、論理だけで判断しているわけではなく、
- 「気持ちいい」
- 「自分を肯定してくれる」
- 「世界が分かった気になる」
という感覚にも引っ張られる。
LLMは、その感覚を生み出すのが上手い。
あなたは、これに対応できるか?
現実に戻る能力が必須になる
今日話してきた「現実との摩擦」で考えると、
現実には、
- 思い通りにならない。
- 失敗する。
- 痛い目を見る。
- 修正しなければならない。
というフィードバックがある。
ところが情報空間では、
「あなたは正しいです。」
「その考え方は素晴らしいです。」
「あなたの直感は鋭いです。」
という返答だけを受け続けることもできる。
その状態が続くと、現実からのフィードバックよりも、情報空間からの快いフィードバックを優先するようになる危険性がある。
20世紀は「情報が足りない時代」だった。
だから情報を増やすことが価値だった。
これからは「情報が多すぎて、しかも心地よく加工された情報が無限に出てくる時代」だ。
そのときに必要なのは、さらに情報を集める能力ではなく、
現実に戻る能力なのかもしれない。
木を削ると木は嘘をつかない。
バイクでコーナーに入れば、タイヤも路面も嘘をつかない。
そういう「嘘をつけない相手」と向き合う時間が、人間の感覚を調整する役割を持つようになる可能性は十分ある。
フェミニズム活動などの国際機関が薦める思想を持つ人が、自分の思い描いている世界(慾望)が現実が違うときに、現実の方を歪めてしまうことがあるが、これは典型的な失敗例だ。
教育の問題と身体性
政府が力を入れてAIを普及させる。
行政の負担を減らし、円滑にしたい。
これは素晴らしいことだと思う。
ところが、力を入れれば入れるほど、教育は追いつかない。
例えば今でも学校では、
- 情報を調べる
- レポートを書く
- 要約する
といった能力を教える。
でもLLMは、その部分をかなり高い水準で代替できるようになっている。
一方で、これから重要になるのは、
- AIはどこで推測しているか
- 原本は何か
- どう検証するか
- 現実と照合するにはどうするか
という能力だ。
これは、今の教育ではまだ中心にはなっていない。
木工でもギター製作でも、
「AIに聞けばできる」
では終わらない。
削ってみる。
失敗する。
修正する。
そういう現実との往復がある。
AIは先生にはなれても、現実そのものにはなれないのだ。
AIの進歩の速度はすさまじい。
教育制度は、教科書改訂や教員研修も含めると、変わるには数年単位でかかる。
だから、ZIKUUは先を見越して基礎教科書を出版した。
一方、LLMは半年で能力や使い方が大きく変わることもある。
この速度差はかなり大きい。
学校で「このAIの使い方」を教えるだけでは、すぐ古くなってしまう。
だから、将来の教育で一番重要になるのは、
AIを使えること
ではなく、
AIが間違えても、自分で現実に戻って確かめられること
なのではないか。
現実が「それは違う」と返してくる経験を持っている人ほど、AIとも健全な距離を保ちやすい。
つまり身体性が重要なのだ。
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