男は八十、女は八十五。
だいたいそのあたりが人生の終了時期だと言われる。
うちの父も、それを少し越えたところで風呂場で逝った。
母はその年齢を超えて、まだなんとか生きている。
静かになったので、もう長くないのかもしれない。
そのくらいの年齢になると、誰がいつ死んでもおかしくない。
老化による何かが身体のどこかで破綻する。
それが“死因”になる。
ただ、この“死因”というものが厄介だ。
肺炎を患って亡くなったと言っても、「肺炎だったから死んだ」のか、「死ぬ前にたまたま肺炎だった」のか、実際のところはよくわからない。
死亡診断書には、何かひとつ書かないといけない。
だから肺炎とか、コロナとか、書く。
だが、そのラベルが真実を語っているわけではない。
困るのは、この“都合のよい曖昧さ”が統計や政治や商売の側から見ると、とても扱いやすい道具になることだ。
死んだ時にコロナが検出されていればコロナ死。
肺炎なら肺炎死。
そういう数え方で、感染の恐怖も、薬の需要も、いくらでも演出できてしまう。
実際のところ、「コロナが原因で死んだ人」は驚くほど少なかったはずだ。
ほとんどが、“死ぬ直前にコロナウイルスが体内にあった人”だったのだから。
本当は、老衰でいい。
そう書くのがいちばん素直だ。
だが、社会はその素直さをなかなか許さない。
数字が動き、予算が動き、誰かの商売が動く。
死因というラベルは、医療の現場というより、社会の都合で決まってしまうことが多い。
人間の死は単純なのに、それを説明する制度だけが妙に込み入っている。
この歪みがずっと気になっている。
それでも、人の死には美しさや懐かしさも感じる。
- 子供の頃に、父や祖母に叱られたこと
- ふとした時に見せた優しい目
- 他愛のないことを喜んでくれた笑顔
そういうものが、美しい思い出と人生の文脈として自分の中に残り、時には同じ文脈を辿り、時には別の文脈に別れていく。
私は、人生は命の一部を体験しているだけだと感じている。
- 私の人生はある
- 私の命は何かの一部で自分だけのものではない
そういう感覚だ。
命という何かすごく大きなものに包まれた一瞬であり一部。
だから、人生とは、命の体験を誰かに残すもの、という捉え方をしている。
ZIKUUを始めたのも、AIを使った知識空間を構築するのも、塾生と話をするのも、すべてが命というシステムの一部としての責務みたいなものだと感じる。
私の人生はあると書いたが、それも本当は錯覚なのかもしれない。
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