私は、退屈するということがほぼない。
退屈しないから、テレビや映画を見たいとも思わないし、飲み歩きたいとも思わない。
次々にやりたいことが見つかり、それをやるという日々を送っている。
誰に言われるでもなく、次にやることが自動的に決まる。
なぜそうなのか。
そのことについて書いてみたい。
何かを欲しい、と思うことがある。
道具でも、仕組みでも、暮らし方でもいい。
多くの場合、その感情は自然に「買う」「使う」「真似る」という行動に変換される。
それはごく普通の流れだ。
ただ、私は塾生たちや仲間に、いつもこう言っている。
欲しいを作りたいに変えようと。
欲しい=消費側
作りたい=生産側
これを欲望の方向転換と呼んでいるけれど、立場の話でもある。
消費側にいると、世界は完成品として見える。
誰かが設計し、誰かが作り、誰かが整えたものを前にして、
自分は「選ぶ」「評価する」「使う」側に立つ。
この立場では、判断はとても軽い。
気に入らなければ別のものに移ればいい。
合わなければ、文句を言えばいい。
その代わり、世界に手を入れる余地はほとんど見えない。
退屈の正体は、刺激不足ではない。
判断の余地がないことだ。
一方、「作りたい」に変わった瞬間、見える景色が変わる。
これは大げさな話ではない。
立派な作品を仕上げる必要もないし、誰かに見せる必要もない。
ただ、
- どうなっているのか
- どこが不便なのか
- 何を省けるのか
そう考え始めた時点で、立ち位置が変わる。
世界が、完成品ではなく途中経過として見え始める。
失敗はただの失敗ではなく、情報になる。
遠回りは無駄ではなく、構造を知る手がかりになる。
ここに来ると、不思議と退屈しなくなる。
この変化は、性格とも才能とも関係がない。
飽きっぽいかどうか。
やる気があるかどうか。
意志が強いかどうか。
そんなものは、ほとんど関係ない。
違いを生むのは、判断が必要な場所に身を置いているかどうかだけだ。
やるしかない構造の中に置かれると、人は勝手に考え始める。
考え始めると、次の一手が見えてしまう。
次が見えるから、手が止まらない。
立ち位置が変わると、最初は
「すごいですね」「便利ですね」で止まっていた会話は、
いつの間にか
「ここ、変じゃないですか?」
「自分ならこうします」
に変わっていく。
知識が増えたわけじゃなくて、視点が移動しただけだ。
私は、教えている・指導しているとは思っていない。
ただ、「どこに立つか」を何度も示しているだけだ。
消費側にいる限り、世界はいつも「与えられるもの」。
生産側に立つと、世界は「手を入れていい未完成品」になる。
欲しいと思ったら、それは買う合図ではない。
作る側に回る合図だと思っている。
その一歩を踏み出すと、消費側にいると手に入らない視点を持ち始める。