―― 正義の形をした攻撃衝動
正義が娯楽になるとき
スマートフォンとドライブレコーダーの普及によって、交通トラブルは「誰にでも起こりうる日常」から、「消費される映像」へと変質した。
そこに映っているのは、数秒から数十秒の断片である。
しかし、その断片はしばしば、一人の人格や人生全体を代表するものとして扱われる。
人間はミスをする。
これは倫理の問題ではなく、構造の問題である。
注意力には限界があり、疲労もあれば、判断を誤る瞬間もある。
社会は本来、その前提の上に成り立ってきた。
だからこそ、標識があり、信号があり、保険があり、再発防止の仕組みがある。
ところが、SNS上で消費される交通トラブルには、そうした前提が存在しない。
あるのは「切り取られた一瞬」と、それに群がる異様な正義感だけである。
この正義感は、事故を減らすためのものではない。
安全を向上させるためのものでもない。
それは単に、「叩いても許される対象を見つけた」という快感に過ぎない。
問題なのは、その正義感が自覚されていない点にある。
多くの人は、自分が娯楽として他人の失敗を消費しているとは思っていない。
むしろ、「社会のため」「危険行為の抑止」「常識の共有」といった言葉で自らを正当化している。
しかし、もし本当に社会の安全を考えているのなら、関心は必ず構造に向かうはずである。
なぜその場所でミスが起きやすいのか。
なぜその判断を誤りやすいのか。
どうすれば同じ状況を減らせるのか。
ところがSNSでは、そうした問いはほとんど立ち上がらない。
代わりに立ち上がるのは、「あいつはダメだ」「免許を返納しろ」「だから○○は危険だ」といった、単純化された断罪である。
これは正義ではなく、思考の放棄である。
歴史は何度も同じ構造を警告している
この種の正義感は、現代特有のものではない。
人類は、似た構造を何度も繰り返してきた。
象徴的なのが、近世ヨーロッパにおける魔女狩りである。
魔女狩りは、迷信や無知の暴走として語られがちだ。
しかし実態は、社会不安に対する極めて人間的な反応だった。
不作、疫病、事故。
原因が見えない不安が積み重なったとき、人々には「説明可能な悪」が必要だった。
告発する側は善意を自覚していた。
共同体を守っている、正しいことをしている、という確信があった。
次に、フランス革命期の恐怖政治がある。
革命は自由と平等を掲げて始まった。
だが途中から、正義は行為ではなく立場で測られるようになる。
疑われた者は弁明も沈黙も許されない。
ここで起きたのは、改善ではなく排除だった。
さらに近代の例として、文化大革命がある。
この時代の特徴は、処罰を担ったのが権力者ではなく、一般市民だった点にある。
告発は正義の証明であり、他人を叩くことが自己防衛になった。
過去の言動が掘り起こされ、現在の人格が断罪される。
これらに共通するのは、正義が社会を良くするための手段から、叩いても許される立場の証明へと変質した瞬間である。
そして毎回、同じ前提があった。
叩く側は、自分が次に叩かれるとは想像していなかった。
現代のSNSは、この構造をそのまま引き継ぎ、速度と規模だけを極端に拡張した装置である。
距離を取るという選択
では、どう距離を取るか。
答えは単純だが、意識的である必要がある。
第一に、映像や切り抜きを事実だと思わないことである。
それは常に、文脈を欠いた断片に過ぎない。
第二に、断罪の言葉に参加しないことである。
沈黙は敗北ではない。
参加しないという選択は、思考を手放さないという意思表示である。
第三に、改善の話題にしか関与しないことである。
構造の話ができない場には、留まる価値がない。
そして最後に、盛り上がれない自分を肯定することだ。
正義に酔えない感覚は、冷淡さではない。
それは、人間の不完全さを前提に社会を見ているということだ。
歴史が示してきたのは、声の大きな正義が社会を守るとは限らない、という事実である。
静かに距離を取り、構造を見続ける人間が少数でも残ること。
それこそが、社会が壊れきらないための条件なのだ。