ZIKUU方丈記

若い頃に読んだ本の一つに、鴨長明の『方丈記』がある。
そこから影響を受けている可能性は多少はあると思うし、共感する部分も少なくないが、若い頃に読んだきりだし、当時も強く惹かれた印象がないので、影響は限定的だと考えている。

今回は鴨長明と私の思想を比較してみようと思う。

これは単純な比較です。どちらが良いか悪いかという話ではありません。

無常

長明私
世界は絶えず変化し、何ものも永続しない。ゆえに執着を離れる。変化は避けられない。その都度適応し、作り直せばいい。

出発点は近いが応答が違う。

変化への態度

長明私
移ろう世界から距離を取り、静かな場所を求める。変化を礼賛はしないが、前提として受け入れる。

観照と適応

所有

長明私
所有を縮小することで束縛から離れる。自立や供給力に必要なら積極的に持つ。ただし所有自体を目的にしない。

縮小 vs 道具的所有

足る

長明私
必要を小さくし、少ないもので足りる状態へ向かう。必要十分は文脈によって変わる。固定しない。

収束する必要 vs 動く必要

住まい・場所

長明私
方丈は世俗から離れて生きるための小さな庵。人・道具・知識・技能が集まり、何かが生まれる場所。ただし住まいに関しては長明の考えに近い。

退避する場所 vs 生成する場所

社会との距離

長明私
都・地位・社会的関係から退く。主流社会とは距離を取りつつ、小さな共同体として接続する。

距離を取るのは同じだが、孤立度が違う

自立

長明私
他者や社会への依存を小さくする。自分と共同体のできることを増やした上で、互いに依存する。

非依存 vs 弱く相互依存

自由

長明私
束縛や執着から離れることで得られる自由。状況が変わっても、自分で選び行為できる能力と選択肢を持つこと。

離れる自由 vs 行為できる自由

労働

長明私
小さな暮らしを自ら成立させる実践。自立の手段であると同時に、世界を理解する実践でもある。

私の方が若干認識論的か

知識

長明私
教養を持ちながら、世俗的成功から距離を置く。行為や判断につながる知識を重視。世界の見方を変える知識にも価値を認める。

知識を目的化しない点は近い

自然

長明私
人間の力を超えた無常を示すと同時に、静かに暮らす環境。人間自身もその一部として、観察しながら付き合うもの。

観照する自然 vs 関係する自然

幸福

長明私
世俗的欲望から離れた静かな暮らし。ただし、その暮らしへの執着さえ疑う。執着や外部評価に支配されず、自分で行為でき、人や自然との何でもない瞬間を味わう。

非世俗的な幸福観はかなり近い

評価・名声

長明私
世俗的地位から離れる。ただし完全に超越できたのかを自問する。評価されれば嬉しいが、評価によって行為を決めない。

評価からの距離という点で近い

執着

長明私
執着そのものから離れようとし、方丈への愛着さえ問題にする。できるだけ執着を手放したい。

かなり近い

共同体

長明私
最終的には個人的な隠遁へ向かう。小規模な共同体の中で相互に支え合う。

最大の相違点

他者への責任

長明私
基本的には自己の生き方と救済へ向かう。自分には共同体へ貢献する責任を課す。ただし他人にはそれを強制しない。

自己規律は強いが普遍化しない

他者を変えること

長明私
自ら退き、自分の生を問う。場と機会は作るが、そこでどう生きるかは本人に任せる。

非強制という点では近い

文明・技術

長明私
当時の都市社会から距離を取る。現代文明の成果は利用する。ただし全面依存しかできない状態にはしない。

文明拒否ではなく依存度の調整

死

長明私
無常を自覚し、自身の生と執着を問い直す。自分の死そのものより、知識・技能・関係などが次へ継承されることを重視。

自己の救済 vs 継承

宗教・超越

長明私
仏教が思想の重要な座標軸。超越や宗教そのものへの関心は薄い。

根本的に異なる

「よく生きる」

長明
仏教的な枠組みを背景に、執着から離れた生を問う。「よく生きる」を固定的に定義しない

規範そのものへの距離が違う

世界への姿勢

長明
無常の世界から距離を取り、眺める。少し距離を取って眺めながら、それでも必要なことはする。

比較的近い姿勢


こうして比較してみると、「世界は、自分の都合どおりにはならない」という認識は同じだが、その次が違う。

長明は、

無常 → 執着を減らす → 所有を減らす → 社会から距離を取る → 方丈

一方、私は、

無常 → 適応できるようにする → 技能・道具・知識を持つ → 選択可能性を増やす → 小さな共同体

へ向かう。

そして最も大きな違いは、未来への向きだと思った。

長明の方丈は、最後には長明一人へ収束していく。

ZIKUUは逆で、自分がいなくなったあとにも、誰かが何かを作り、誰かから誰かへ技能が渡っていく方向へ開いている。

今回の比較の結論はこうだ。

鴨長明は、無常の世界から自由になるために方丈を作った。

私は、無常の世界でも自由に行為できるようにZIKUUを作った。

共感はしたけれど、似ていない。正反対かもしれない。

死ぬときは一人だから、否が応でも人間の人生は収束する。
だから、私は自分一人に収束するという方向を考える価値を見出さない。
そう考えている。

表題は「ZIKUU方丈記」だが、方丈記にはなりそうにない。


よく田舎には、粗末な服装、無精髭、長髪みたいな出で立ちの人がいる。まるで世捨て人のように見えるが、スマホも車も持っているし、アマゾンのダンボールもあり、流行りのカタカナ言葉をしゃべっている。

気分だけ方丈記ね

大量生産・大量消費・機械化・工業化から離れたいという欲求は昔からあるし、そこに魅力を感じるのもわかる。

そういう世俗から離れる志向みたいなものがあって、方丈記に魅力を感じる人もいるかもしれないが、長明は自分に対する懐疑の視線が厳しいから、都合の良くいいところ取りはしない。

昔、「湘南ライフに憧れて」みたいな雑誌の特集があった。

茅ヶ崎生まれの母を持ち、生まれてからずっと鎌倉〜茅ヶ崎周辺で暮らしてきた私などから見ると、そういう特集に惹かれて移り住んできた人は、すぐに判別がつくことが多い。

雑誌の中から出てきたみたい

服装、身振り手振り、言葉使い、連れている犬など、ライフスタイルやアイデンティティが違うから、ああ、地元の人じゃないなとわかる。

80年代90年代にシティポップスを流しながら海岸線をドライブ。
そんな光景を思い出す。

湘南にはところどころに別荘地みたいな場所はあるけれど、ほとんどが漁師町だ。

農業、漁業、林業、工業という下地があって、それが風土となって、快適な暮らしがある。
その快適な部分だけが欲しいわけだ。

残念なことに、そういうのは長続きはしなくて、下で支える人がいなくなれば困窮する。

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