自由には二つの顔がある。
ひとつは、他者から与えられた制約から離れる自由。
もうひとつは、自分で選び、自分で引き受ける制約の自由だ。
多くの人は前者だけを見て、後者を見落とす。
だから「制約があるのは自由ではない」と考えてしまう。
けれども実際には、制約のない場所などどこにもない。
会社に行くという義務から離れれば、朝起きられなくても誰も叱らない。
やるかやらないかは完全に自分次第だ。
だがその代わり、生活の時間割も、仕事の組み立ても、評価の基準も、すべて自分で作らなければならない。
外側の制約を外すというのは、それと引き換えに、内側に新しい制約を置くということだ。
ZIKUUでAIに読ませているZIKUU Vocaburaryという基本概念集がある。
そこには、次のように概念を定義している。
## 自由
- 何でもできることではない。
- 引き受ける範囲を自分で決められること。
## 自立
- 一人で何でもできることではない。
- 依存先を把握し、内部の技術に切り替えること。
## 自律
- 規則に従うことではない。
- 状況に応じて、自分で判断基準を更新できること。
リモートワークは、その典型だと思う。
出社という外側の枠は、規則正しい生活や、人の視線による適度な緊張を自然に与えてくれていた。
それがなくなると、「今日はちょっとゆっくりでいいか」という甘さが入り込む。
このとき、「リモートは怠けるからダメだ」と言うのは簡単だ。
しかし、それは診断を間違えている。
怠けるのは、リモートワークのせいではなく、自己管理という“内側の制約”を扱う成熟が足りていないからだ。
もしリモートワークが組織にとって本当に有効なら、廃止するのではなく、その成熟を育てるほうが良い。
結局のところ、自由は軽くない。
外側の制約を取るというのは、「何を基準に動くのか」という問いを、自分に向けて突きつけることだ。
自由は、責任と隣り合わせだ。
そして責任は、制約の一種だ。
だから、本質的に言えば、自由とは、制約を“自分で選び直す”行為にすぎない。
外側の制約を手放した瞬間、人は自分の未熟さと向き合わざるを得なくなる。
その苦みこそが、自由の試験であり、その試験を通るためには、技量も、覚悟も、静かな自省も必要になる。
制約は消えない。
ただ、誰がその制約を持つのかが変わるだけだ。
その主体を自分に取り戻せたとき、ようやく自由は、自由として立ち上がる。
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