始末に負えない人〜独学のすすめ

地位も名声も金も要らぬ。
始末に負えない男。

薩摩の西郷さんはそんな人だったらしい。

以前、週末科学者のすすめを書いたけれど、今回はその続きみたいな内容だ。

独学のすすめ

私は、プログラミングもギター作りも建築も溶接も、全部独学だ。
もちろん先人を参考にすることはあるから、完全な独学とは言えないかもしれないが、少なくとも、そのための学校や教室に通ったことはない。
そもそも専攻は文学だった。

私はエリートではない。
伝説のプログラマーと呼ばれることもない。
偉くもなんともない。
学位もない。
資産家でもない。
後ろ盾もない。

マキャベリは、『君主論』の中で、真の力は肩書や組織にあるのではなく、独立した「問い続ける能力」にあるという主旨のことを書いている。

よく、

そういう決まりだから

と言われることはないか?

あれは、私にはとても気持ち悪い。
決まりなのはわかってるけど、なぜそうなんだと聞き返したくなるし、実際に聞き返すこともある。

教育の名を借りた条件付けをされて多くの人は育つ。
この条件付けは、制度、地位、認可、承認、権威への依存を意味する。
そして、この依存によって、安定を保とうとする。

「決まりなんだから」
「どこどこ大学出身だから」
「みんなが良いと言っているから」

こうなる仕組み全体を、支配や統制と呼んだりもする。

独学は、これらの外側で、純粋な興味や関心を発端として、真実を知りたいという欲求によって発生する行為だから、それらの条件をバイパスしてしまう。

「決まりだから」と言われれば、なぜそう決まってるのか、あなたはそれでも良いのかと問う。
「どこどこ大学出身だから」と言われれば、だから何?と問う。
「みんなが良いと言っている」と言われれば、あなたの本心は、あなたはそれでいいのと問う。

何が正しいかの判断は、現実の観察から、必要に迫られて行う。
褒められようが貶されようが、やることは変わらない。

独学者の危険性

学術、メディア、政府は知識をフィルタリングし、社会基準を維持する。
その過程で「本当の真実」や「独自の洞察」は排除され、エリートのイデオロギーが強化される。
しかし、独学者は、たとえば、制度の良否を議論する場面で、その制度が必要な理由を問う。
制度の中の人は、その制度ありきという条件で考えるが、独学者にはその条件がない。

条件あっての地位の人たちからすれば、条件が不要であることがバレるのは怖い。

独学者は、始末に負えないどころか、恐怖でもある。

威圧しているわけでもない。
反逆しているわけでもない。
むしろ友好的だ。

でも、

素直に問いを投げる。

条件のないところから、素直に「これ不要じゃない?なんで必要なの?」と問う。

これ嫌じゃない?

週末科学者と独学者は相性がいい

ZIKUUでは、普通の人が科学できるように、ITとAIを使ったシステムを作っている。
知識を集める仕組みができた。
意味空間を探索する仕組みもできた。
AIも使える。
これらがすべて、世の中とは独立してローカルで動く。

実験装置を作るための設備も揃えている。
独学したい人は、どんどん進められる環境だ。

ここでは、調べるのも、学ぶのも、試すのにも、認可や承認が要らない。
大きな組織じゃなくても、立派な学校でなくても、指導者がいなくても、やれることはたくさんある。

失敗と責任を引き受けられるなら何をやっても構わない。

あなたは、誰かに承認されなくても、誰かが条件を設定してくれなくても、

自由に行動できるか?
自由に行動したいか?

どう?

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