縄文的なもの – 髭を生やす必要はない

縄文は自立分散型共同体の文明だ。
広範囲に分布する小さな共同体が交易をしてつながっていた。

交易ができるということは、交換する価値があるものを持っているということ。

あなたはそういう価値を作り出せるか?

今回は、縄文的ということはどういうものかを考えてみる。


縄文土器

縄文土器を見ると、「機能を満たせばいい」という感じがまるでない。

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火焔型土器なんて特にひどい。
煮炊きの容器として考えれば、あんな突起は邪魔だろう。
割れやすくなるし、洗いにくいし、製作にも時間がかかる。

効率化や最適化などまったく考えていない。

しかし、単純に「余裕があったから装飾した」と断定するのは少し危ない。
祭祀や社会的意味があった可能性もあるし、縄文社会にも飢餓や厳しい時期は当然あったはず。

それでも、あれだけの造形を考え、粘土を調整し、成形し、文様を付け、壊さず焼成するための技能・時間・知識の蓄積が存在したことは確かだ。

文明の豊かさを「一人あたりGDP」だけで測ると、この種の豊かさがほとんど消えてしまう。

役に立たないものに、どれだけ本気になれるか。

これは案外、共同体の余力を見る良い尺度かもしれない。


「縄文的」というイメージ

世の中、縄文的というと、粗末な服を着て、髭を伸ばし、髪を伸ばして後ろで束ね、土を捏ねたり石を割ったりするのをイメージしがちだけど、そうじゃない。

鹿皮を着て、石器を作って、火を起こして、土器を焼く。
それは縄文の技術を再現しているのであって、縄文的であることとは別だ。

むしろ今の道具を全部使っていい。

CNCもレーザーも旋盤も3DプリンタもAIもGPUも使う。
必要ならAmazonで部品も買う。
でも、それらに生活の成立条件そのものを明け渡さない。
そして余った能力で、誰にも頼まれていないモノを全力で作る。

こっちのほうが、ずっと縄文的に見える。

つまり「縄文的」を技術水準として捉えるんじゃなくて、人間と生産、共同体、自然、余剰との関係のあり方として捉える。

そうすると、

最新技術を使って縄文的に暮らす

ということが普通に成立する。

石を割りたければ割ればいいけど、石器時代へ戻る必要なんてまったくない。


縄文という記号の消費

原始人みたいな格好して、髭を伸ばし、髪を伸ばして後ろで束ね、土を捏ねたり石を割ったりするのは「縄文的な暮らし」じゃなくて、縄文という記号を消費しているんだと思う。

土を捏ねる、石を割る、焚き火をする、麻っぽい服を着る。それ自体は楽しいし否定する気はない。
でも、それをやったことで生活の供給構造が変わるわけではない。

むしろ面白いのは、現代的な消費社会の中で、

「消費社会ではない感じ」を商品として消費する

ことまでできてしまうところだ。

自然体験を予約して、車で行って、縄文体験をして、写真をSNSに上げて帰ってくる。
構造としては普通のレジャー消費とあまり変わらない。

一方でZIKUUがやろうとしている縄文性は、見た目はむしろ現代的だ。
コンピューターもAIも工作機械もある。

でも、その下にあるのは、

買うしかない → 作れるけど買う
働くしかない → 働けるけど選ばない
売れるなら売る → 売れるけど売らない
成長できるなら成長する → 成長しないことも選べる

という、自分たちの側に選択権を取り戻す動き。

小さく自立して分散する共同体。

縄文的でしょ?

縄文服を着ている人より、GPUの載ったワークステーションでAIシステムを作っているおっさんのほうが、構造的には縄文的だったりするかもしれない。


見た目じゃなくて深く考える

「見た目の印象に引きずられる」でも「答えを覚えろ」でもなく、その答えで本当にいいのかを考え続けるのは大事だ。

深く考えるというのは、難しい言葉を使うことじゃない。

「なんでそうなってる?」
「それ、本当に必要?」
「自分たちでできない?」
「逆に、できてもやらない方がいいんじゃない?」
「そもそも何を守りたい?」

のように、一段ずつ前提を剥がしていくことだ。

「縄文的=土器を作る」では止まらずに、じゃあ縄文的って何なんだ?まで掘るから、供給力とか余白とか、自立の話に繋がっていく。

問い続ける癖があると、世の中が用意した選択肢をそのまま受け取らなくなる。

問いが必ずしも答えに到達しなくていいから、深く考える。


髭を生やす必要はない

木、土、草木染め、焚き火、手仕事、古民家。そして髭。
個々の活動にはちゃんと価値があると思うが、それが繰り返されると、いつの間にか「オルタナティブな暮らし」の定型表現になる。
そういう田舎体験・自然体験的なワークショップってよくやってるでしょ?
顎髭生やして、充実してるっぽいおにいちゃん、よくいるでしょ?

それを見ると「ああ、またか」になる。

問題は髭でもワークショップでもなくて、その先に問いがあるかだ。

「昔のやり方を体験しましょう」で終わるのか、

「なぜ今これは自分で作れなくなったんだろう」
「この地域に何の能力を残すべきだろう」
「最新技術を入れたら、この暮らしはどう変わるだろう」
「そもそも自給する必要があるのか」

まで行くのか。

後者なら、同じ木工でもまるで違う。

だからZIKUUにレーザー加工機やGPUやAIが平然と混在しているのは大事だ。
伝統を保存したいわけでも、昔に戻りたいわけでもない。

手段には執着しない。
でも問いには執着する。

髭を生やす必要はない。

今回書いたことは、日本文明のこれからを考える上で必要な視点だと思っている。

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