知識を棚に並べるのはリベラルアーツではない
最近、少し知的な気分を味わえるYouTubeチャンネルで、リベラルアーツという言葉が使われていた。
学者を呼んで、哲学なら哲学、歴史なら歴史、経済なら経済を一時間聞く。知識は増える。でもそれは、棚に教養科目を一本ずつ追加している感じだ。
本来のリベラルアーツはその後で、
「この話、さっきの贈与論と同じ構造じゃない?」
「AIの問題に見えるけど、実は労働観の問題では?」
「江戸の職人制度と現代のソフトウェア開発って似てない?」
みたいに、頭の中で分野の境界が勝手に壊れていくところにある。
物理学者、数学者、人類学者、文学者など、それぞれの分野の話は、それぞれに面白いけれど、並べただけでリベラルアーツを語るのは少し図々しい感じがある。
それがテレビ的なのかもしれないけど、浅薄な印象を受ける。
むしろ、みうらじゅん氏が仏像からゆるキャラ、土産物、宗教、欲望、老いまで平気で横断してしまう方が、よほどリベラルアーツっぽい。専門家ではないことが、逆に強い。
多能工の世界はリベラルアーツに近い
多能工というのは、単に「いろんなことを知っている人」ではない。
それは、木工、金工、電気、ソフトウェアといった別々の領域を、一つの目的のために行き来できる人。
そこでは知識が科目ごとに分かれていない。
「これを作りたい」
→材料は何がいい
→加工方法は
→強度は
→電源は
→制御は
→使う人はどう感じる
と、必要に応じて世界を横断する。
むしろ、リベラルアーツの本質もこっちで、哲学を学ぶ、歴史を学ぶ、科学を学ぶ、ではなくて、目の前の問題を考えていたら、それらを全部使わざるを得なくなる状態になること。
だから多能工は「手を使うリベラルアーツ」と言ってもいい気がする。
しかも手を使うと、頭の中だけでは成立していた理屈が容赦なく壊れる。そこが強い。
学者の話を聞いて「なるほど」で終わると、知識の鑑賞になりやすい。リベラルアーツっぽい雰囲気はあるけど、自分の判断や行為が変わらない。
本当に効いてくるなら、哲学者の話を聞いたあとに、翌日の仕事の進め方が少し変わるとか、歴史の話から組織の見方が変わるとか、物理の話から道具の作り方を試したくなるとか、何かしら手に降りてくるはずだ。
多能工の世界では、それが強制的に起きる。
「知っている」だけでは物ができないから。
だから、
頭で世界を横断するのが教養なら、手まで含めて世界を横断するのが多能工
くらいの違いはある気がする。
そして後者の方が、昔のリベラルアーツが目指していた「自由な人間を作る」という意味には、近いのかもしれない。
教養は知識ではない
現代の学問は細分化や専門化に向かった。
細部を見るにはいいと思う。
ただし、専門化は解像度を上げるには強いが、世界全体との接続を失いやすい。
宇宙論や古代史のような直接試せないものもあるが、一度こう問うてみるといい。
「それって試した?」
「やってみた?」
これは現実に触れたときに何が起きたかを問う。
直接試せないことでも、
「その知識を使って何を見直した?」
「何か予測した?」
「別の現象に当てた?」
くらいは問えそうだ。
多能工の世界は容赦ない。
木は割れるし、刃物は切れないし、回路は燃えるし、設計通りに動かない。
そこで初めて、
「俺の理解、違ってたな」
が発生する。
この修正回路まで含めて、教養だと考えてはどうか。
専門家に専門の話を聞くのを主にしない
こんな番組なら面白いと思う。
物理学者を呼んで、大工をやらせる
社会学者を呼んで、溶接をやらせる
人類学者を呼んで、プログラムを書かせる
要するに、専門家に「専門の話をしてください」じゃなくて、専門の外に身体ごと放り出す。
物理学者が大工をやれば、摩擦、剛性、てこ、振動を知識ではなく手応えで再発見する。
社会学者が溶接をやれば、技能継承や分業や安全文化が急に具体物になる。
人類学者がプログラムを書けば、記号体系、規則、共同体、暗黙知みたいなものが別の角度から見えてくる。
しかも面白いのは、たぶん最初はみんな失敗すること。
そこで職人が横から、
「理屈はいいから、そこ見て」
とか言う。
その瞬間に、学問と技能の上下関係が崩れる。
これは「学者に素人芸をさせる番組」じゃなくて、専門知が別の現実に触れたとき、どう組み替わるかを見る番組にできる。
この方がずっとリベラルアーツらしい。
専門化の先にリベラルアーツは存在できない。
YouTube芸者にされる専門家
専門家を呼んで、難しい話をうまく引き出して、視聴者に「勉強になった」と思わせる。形式としては上手いけど、結局は知の見世物化だ。これがとてもテレビ的。
そこでは出演者も視聴者も、あまり傷つかない。失敗もしないし、手も汚れないし、自分の理解が現実に否定されることもない。
でも本当に面白いのは、物理学者が墨付けを間違えるとか、社会学者が溶接ビードを盛大に蛇行させるとか、そういうところから始まると思う。
知識を披露するんじゃなくて、知識を現実にぶつける。
その方が、テレビ的じゃなくなって面白い。
ちなみに、私は専門知識がある、能力が高い、そういうものを重視しているように思われるかもしれないが、本心ではまったくそう思っていない。だから、専門知識があるから偉いとか、能力が高いから価値があるとか、そういう風には思わない。
これについては、また別の機会にしっかり書くつもりだ。
人の幸福には、知識や能力より、こちらの方が重要だからだ。
面白くないので、私は、もう30年くらいテレビを見ていないし、家にはテレビがない。
YouTubeを見ていても、テレビ的だと感じたチャンネルやテレビの人が出ているチャンネルは「おすすめ」に載らないようにしている。
過去に書いたリベラルアーツに関する記事もあります。よかったら読んでみてください。
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