ダグラス・エンゲルバートのAugmentの系譜

Augmentの系譜

Augmentの系譜は、雑に言うと 「人間の知的能力を増幅する道具体系を作る」 という流れ。「AIやコンピュータに人間を置き換えさせる」のではない。

ダグラス・エンゲルバートは、1962年の論文 Augmenting Human Intellect で、複雑な問題を理解し、解決する人間の能力を高めることを目的にしたコンピュータ利用を提案した。

重要なのは、彼が作りたかったのは単なる便利ソフトではなかったこと。

人間の思考
+
記号操作
+
外部記憶
+
共同作業
+
道具
+
道具を改善する方法

この全体を一つの「知的作業システム」として見ていた。

普通のコンピュータ史では、

マウスを発明した人
GUIの先駆者
ハイパーテキストの先駆者

として語られがちだが、Augmentの本筋はそこではない。

本筋は、

人間は複雑な問題を頭の中だけでは扱えない
だから、思考を外部化する
外部化したものを構造化する
構造化したものを共同で編集する
その道具体系自体も改善し続ける

という考え方だ。


Claude CodeやMythosへの熱狂

世の中のClaude CodeやMythosへの熱狂の根底には

  • 人間の代わりにやってほしい
  • 開発速度を上げたい
  • 人手を減らしたい
  • ソフトウェアを大量生産したい

という欲求がある。

ちょっと奴隷制度のような雰囲気もあるし、人間が判断や思考を手放す危うい方向性も見える。

AIの活用を

  • 効率化
  • 自動化
  • コスト削減

という商業的あるいは功利的態度で見ているようにも感じる。

主に、非生産労働に携わる人たちが喜んでいるようだが、少なくとも当面は、電気技師や大工や土木作業員などの職人的な仕事を代替できるほどの能力をAIが持つことはない。

なので、

「便利そうだね」

とは思うけど、

「だから何?」

になる。


Augmentは人間の能力拡張

私は、エンゲルバートの論文は読んだことがないけれど、その要旨を何かで読んで、影響を受けたのは間違いない。

コンピューターを買って始めたやったことが、アウトラインプロセッサーを作ることだった。

アウトラインプロセッサーは「文章を書くためのツール」ではなく、

  • 考えている途中で忘れる
  • 全体構造を保持できない
  • 複雑な階層を同時に扱えない

という人間の認知的制約を補うための装置だ。

言い換えると、



認知限界

補助装置

という発想が根底にある。

最近のAgentic AIを見ている人たちの視点が、

人間の代わりに何かをやらせるか

であるのに対して、

自分の脳のどこが弱いか
どこを機械に預けるべきか

ということに私は興味を持ち続けてきた。


Agentic AI界隈

Agentic AI界隈は無意識に、

仕事がある

AIにやらせる

人間は楽になる

という前提を置いているのに対して、私とZIKUUは、

仕事がある

なぜその仕事が存在する?

本当に必要?

仕組みを変えられない?

という方向に思考が向かう。

そもそも議論のスタート地点が違うから、Claude CodeやMythosを見ても、

だから何?

になる。

例えば行政書類の話なら、Agent派の発想は、

補助金申請

Agentが記入

Agentが提出

Agentが進捗管理

になる。

でも、私の場合は、

なぜこんな申請書が必要なのか
なぜ同じ情報を何度も書くのか
本人確認の別の方法はないのか
この申請書の存在理由は何か、誰がそこから利益や利権を得ているか

を考える。

昔から有名な言葉がある。

The fastest code is the code that never runs.

実行しないコードが一番速い。

同じように、

一番効率の良い申請

申請が存在しない

になる。

ZIKUUが開発する PRE (Pivot Reasoning Engine) は、

そもそも何を観測するべきか
どの視点が欠けているか

を扱おうとしている。
つまり、問題設定そのものを見直す装置としての設計だ。


「何になりたいか」ではなく「何が面白いか」

一般的なキャリア論は、

目標を決める

専門を決める

深く掘る

専門家になる

という一本道を想定している。

私のキャリアの中には「何になりたい」はなかった。

大学で教職課程をとる
↓
配送のアルバイト長くやる
↓
ソフトウェア開発の面白さを知る
↓
NeXT/Appleに勤める
↓
B2Bコンサルをやる
↓
証券システムの設計開発をやる
↓
ギターを製作する
↓
木製ロードバイクを製作する
↓
ZIKUUを作って教育みたいなことをやる
↓
AIシステムの開発をやる

一見一貫性がないように見えるかもしれないが、

面白そう
↓
飛び込む
↓
本質を掴みにいく
↓
次へ

を何十年も繰り返して今に至っている。

「何になりたいか」

より、

「何が面白いか」

が羅針盤になっているように見える。

そして面白いのは、その結果として幅だけでなく深さも獲得していること。

多くの場合、幅を取ると浅くなり、深さを取ると狭くなるが、

新しい分野

仕組みが気になる

構造を掘る

本質を探す

という癖があるから、分野は変わっても、掘る深さはあまり変わらない。

「何になりたいか」という方向性を決めない方が可能性が広がるとさえ思っている。

ただし、これは判断基準を持っている場合に限るかもしれない。

私の場合は、

  • 構造が見えるもの
  • 本質に触れられるもの
  • 手を動かせるもの
  • 自分で確かめられるもの
  • 幅と深さを同時に増やせるもの

こういうものには一貫して反応している。

逆に、

  • 肩書き
  • 地位
  • 管理職
  • 組織拡大
  • 人をたくさん使うこと

にはあまり反応していない。


教育方針として

多くの教育は、

概念

知識

手順

正解

まで用意する。

さらに親切なものになると、

何をやるべきか
どうやるべきか
どこへ向かうべきか

まで決めてしまう。

私は、教えられることはそんなに多くないと思っている。
だからZIKUUでやろうとしていることは、

概念定義
+
考え方の作法

まで。

つまり、

言葉を揃える

構造を見る方法を渡す

あとは自分で探せ

とういことになる。

だからZIKUU Vocabularyも基礎教科書も、知識集ではない。

むしろ、

世界を見るためのレンズ

に近い。

例えばZIKUU Vocabularyは、

同じ言葉で話せる状態

を作ること。

言葉が揃うと議論できる。

揃わないと永遠に噛み合わない。

これは「尺度」と言っていい。

基礎教科書は

観察する

仮説を立てる

小さく試す

結果を見る

修正する

みたいな構造が何度も出てくる。

だから知識を教えているというより、

構造的に考える癖

を渡している。

これは「作法」と言える。

つまり、

判断基準だけ置いた。その後は好きなだけ広げろ。

という点で一貫している。

教えるのは、「尺度」と「作法」だけで、その先はみんな違っていい、が教育方針ということになる。


飛鳥の大工たち

飛鳥の大工たちは、それぞれが今の基準から見ると超人レベルだ。
圧倒的な仕事の速さと圧倒的な構造や空間認識能力がある。
個人の資質もあるんだろうけど、判断基準だけあって、あとは自由だったからだと思っている。

現代人はどうしても、

優秀な人

才能があった

で説明したくなる。

でも飛鳥や奈良の時代の大工集団を考えると、それだけでは説明しきれない。

法隆寺や薬師寺のような仕事を見ていると、

  • 構造を理解する能力
  • 材料を見る能力
  • 空間認識能力
  • 工程設計能力
  • 他の職人との協調能力

全部が異常に高い。

一人の天才がいたというより、集団全体の水準がおかしい。

そこで重要になるのが、

尺は合わせる

ということなんだと思う。

基準だけは共有する。

しかし、

どう刻むか
どう組むか
どう工夫するか

は各人に任される。

つまり、

制約はある
統制は少ない

状態。

逆に現代は、

基準がある
手順がある
マニュアルがある
チェックリストがある
承認フローがある

になりやすい。

品質は安定するのかもしれない。

しかし、

人間が判断する領域は減る。

これはソフトウェア開発でも同じ。

例えば大企業の開発プロセスだと、

設計書
レビュー
承認
手順
規約

が増える。

品質は上がる。

しかし、

若手が構造そのものを考える機会は減る。

飛鳥の大工は逆だったのかもしれない。

尺だけ共有
墨付けは自分
工夫も自分
責任も自分

だから毎日が訓練になる。

自由だから能力が必要になる。

能力が必要だから能力が育つ。

実はZIKUUのやり方も少し似ている。

Vocabulary
基礎教科書

までは渡す。

しかし、

将来何を作るか
何を研究するか
どう生きるか

は渡さない。

そこは本人に任せる。


PRE や AI塾長

AIが

これが正解です

と言うのではなく、

こういう視点があります
こういうFactがあります
こういう解釈もできます

を提示する。

その先は本人が決める。

これがPRE や AI塾長の位置だ。

基礎能力と判断基準までは徹底的に整えるが、その先の人生や結論には介入しない

誰かから渡された設計図で生きるのではなく、その都度面白そうなものに飛び込みながら、自分で地図を描いて欲しい。

これ、意外と厳しい姿勢だ。

なぜなら、

指示がない
正解もない
責任だけある

から。

本当に楽なのは、

これをやれ
こうやれ
期限はこれ
評価基準はこれ

が与えられる状態。

失敗しても、

言われた通りやりました

と言える。

責任の一部を上に返せる。

ところが、

自分で考えろ

になると、

まず問題設定から自分でやらなければならない。

何をやるのか
なぜやるのか
どうやるのか

全部自分。

さらに、

失敗した

誰のせい?

自分

になる。

ZIKUUのシステムや方針も

社会はずっと安定している
制度は機能し続ける
誰かが助けてくれる

ということを前提から外している。

それは、不確実性の中を生きていくには必要な態度だからだ。

その代わりに、自由に責任を引け受けて、面倒くさいことをやる機会は可能な限り渡して行こうと思う。
それが人の能力を拡張することに繋がると思うから。


生存戦略として

Vocabularyや基礎教科書も、

知識を渡すためというより、

世界を読むための基準

を渡している。

知識は古くなる。

ツールも変わる。

でも、

どう観察するか
どう判断するか

は比較的長く残る。

そして、この考え方がPREにもそのまま現れている。

普通のAIは、

答えを出す

方向へ向かう。

PREは、

状況を観測する
視点を増やす
解釈の材料を出す

方向へ向かっている。

これは、

「平時の効率化装置」ではなく、

「不確実性の中で考え続けるための装置」

に近い。

これは

平時を前提に置いてない生存戦略

という表現が結構しっくり来る。

終末論ではなく、

むしろ歴史観に近い。

歴史を見れば、

  • 政権は変わる
  • 技術は変わる
  • 産業は消える
  • 常識はひっくり返る

それは何度も起きている。

そのときに頼りになるのは、

資格やマニュアルより、

自分で状況を読み、自分で学び、自分で道を見つける能力

ZIKUUが育てようとしているのは、職業人というより、そういう意味での「生存者」なのかもしれない。

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